風鈴
八月九日日曜日快晴
紛れもない晴れだ。雲一つない晴れ空は一面空色で清々しい。
昨日まであれだけ荒れていた空が嘘みたいだ。窓を開けた時に入ってきた冷たく湿った風が心地いい。
庭の木は何本か枝が折れていて、道路には葉っぱや小さな枝が散らばっている。まだ誰も起きていないから新しい世界に一人だけになったような感覚だ。
朝ごはんを食べて、身支度を済ませる。
荷物はもうまとめてある。
自室の真ん中に封筒を置く。中身は百万弱。到底足りていないが、今まで面倒を見てもらっていた分の返却だ。
家の中を見渡す。もう帰らない。けれど依然として寂しさはない。
「行ってきます」
僕は靴を履いて、荷物を持つ。眩しい。どこに行くか決まっている訳ではない。ただ途方もなく進んでいけば、きっと三十一日分の淡夏の夢を見て貴女の夏を知れるはずだ。
とりあえず駅に向かって、来た電車に乗った。車窓に流れる景色はとめどなく過ぎ去っていく。見慣れた畦道の青さは全くの別物へと次第に変わっていく。空を反射した水溜まりは境が曖昧だ。
座席に座ってぼんやり窓の外を見ていたら、いつの間にか眠っていた。貴女の夢を見た。隣に貴女が座って、何かを話しているけれど、何を言っているのか聞き取れない。いつものその伏し目がちな瞳はほんのり哀愁を漂わせて、妙に魅力的だ。淡夏の広がった病室からの車窓は煌びやかで、君は不意に指をさした。
「ほら、夏だよ!私の大好きで大っ嫌いな季節!」
急停車で窓に頭をぶつけて目が覚めた。もうさっきの病室ではなくてただの電車の中だ。
それから何駅か過ぎたところで、知らない駅に降りた。降りてすぐに綺麗な音が聞こえてきた。
駅前には小さな商店街があって、シャッターの閉まった店が多い。日曜日だからなのか、それとも台風の後だからなのかは分からない。
チリン、チリン__
風鈴だった。
一つだけではない。
チリン、チリン、と風が吹くたびにいくつもの音が重なって聞こえてくる。
商店街の軒先とアーケードに風鈴が飾られていた。
赤、青、透明、黄色。ガラスの中に小さな絵が描かれているものもあれば、何も描かれていないものもある。商店街の端から端まで風鈴が並んでいた。
「風音の傘はやがて君の心の傘になるだろうね」
貴女ならそういう気がする。そう言われた気がする。
どこで言ったのかは覚えていない。夏祭りだったかもしれないし、どこかの神社だったかもしれない。もしかしたら、何気ない会話の中だったのかもしれない。
商店街を抜ける。
振り返ると、風鈴がまだ揺れていた。
もっと、もっと遠くへ行こう。きっと貴女も知らない夏を僕は今度こそ貴女に伝えてみたい。




