夜行
八月三十日日曜日晴れ
夜になっても眠れなかった。布団に入って目を閉じても、なかなか眠気が来ない。蝉の声はもう聞こえなくなっていた。昼間はあれほどうるさかったのに、夜になると嘘みたいに静かだった。時計を見る。まだ日付が変わってからそれほど経っていない。起き上がって、窓の外を見る。月は見えなかった。雲があるのか、ただ暗いだけなのかも分からない。なんとなく外へ出たくなった。財布とスマートフォンだけをポケットに入れる。特に持っていくものはない。どこかへ行くつもりもなかった。玄関を出て、鍵を閉める。さて、どちらへ行こうか。そう思ってから、どちらでもいいことに気づいた。右へ曲がった。しばらく歩いて、今度は左へ曲がる。昼間なら何度も見ている道なのに、夜になるだけで知らない場所のように見える。家々の窓には明かりがついているところもあれば、真っ暗なところもある。自動販売機だけが妙に明るい。前を通ると、小さな機械音がして画面が光った。飲み物を買う気にはならなかった。そのまま通り過ぎる。交差点まで来た。信号は誰もいない道路のために、律儀に色を変えている。赤になって、青になる。青になって、また赤になる。誰も見ていなくても、信号はずっと仕事をしている。少しおかしくなって笑った。さらに歩く。駅の方へ向かっていることに気づいたが、別に電車に乗るつもりはない。駅前まで行くと、昼間とはまるで違っていた。店のシャッターは閉まり、人影もほとんどない。昼間はあれだけ人がいた場所なのに、今は広すぎるように感じる。ベンチに座って、しばらく何もせずにいた。終電が終わった駅は静かだった。遠くで車が走る音がして、すぐに聞こえなくなる。スマートフォンを取り出して時間を見る。午前二時を過ぎていた。帰ろうかと思った。けれど、まだ帰りたくなかった。理由はない。ただ、家に戻る気分ではなかった。立ち上がって、また歩き出す。知らない道へ入ってみる。住宅街を抜けると、小さな公園があった。昼間なら子供の声でも聞こえるのだろうが、今は誰もいない。ベンチに座って空を見上げる。星は少ししか見えなかった。海で見た夜空や、山の中で見上げた空を思い出す。同じ空なのに、場所が変わるだけで随分違って見える。貴女と一緒に歩いた道もあった。何を話していたのか、もう思い出せない。けれど、隣を歩いていたことだけは覚えている。あの頃は、こんなふうに一人で夜道を歩くことになるなんて考えもしなかった。しばらくして、また歩き出す。来たことのない道を選んで、角を曲がって、また曲がる。目的地はない。明日の予定もない。ただ足が向く方へ進んでいく。いつの間にか見覚えのある道へ戻ってきた。祖父母の家が近づいている。遠回りをしたはずなのに、結局ここへ帰ってきてしまった。玄関の前で立ち止まる。鍵を取り出して、扉を開ける。暗い家の中へ入る。誰もいない。靴を脱いで、居間へ向かう。窓の外はまだ暗かった。時計を見る。もうすぐ朝になる。今日で八月三十日が終わる。明日は三十一日。最後の日だ。そう考えると、胸の奥に何かが沈んでいくような気がした。けれど、今はまだ何も考えたくなかった。畳の上に横になる。夜の散歩で少し疲れたらしい。目を閉じる。明日になったら、きっと何かを決めなければならない。そう思いながら、僕は静かに眠った。




