金魚
八月二十六日水曜日晴れ
朝から特にすることもなく、祖父母の家でぼんやりしていた。窓を開けていると、蝉の声が庭まで入り込んでくる。テレビをつける気にもならず、縁側に座って外を眺めていた。ふと、庭の隅に置かれている古いバケツが目に入った。祖父が使っていたものだった気がする。持ち上げてみると、底に少し水が溜まっている。中を覗くと、小さな金魚が一匹浮いていた。最初は生きているのかと思った。けれど、しばらく待っても動かない。棒でそっと触れてみる。やはり死んでいた。どうしてこんなところに金魚がいるのか分からない。近所の子供が飼っていたものが逃げたのか、それとも誰かが捨てていったのか。バケツの水を捨てて、金魚を庭の隅に置いた。埋めてやろうかとも思ったけれど、なんとなくそのままにした。昼頃になって、近所を少し歩いてみることにした。祖父母の家の周りには、子供の頃には気づかなかったものがいくつもある。昔はただ祖父の後ろをついて歩いていただけだったから、道の形や家の並びなんて覚えていない。家から少し離れたところに、古い井戸があった。近づいてみると、今でも使われているのかと思うくらい綺麗だった。石の縁には苔もほとんどなく、周りにも枯れ葉ひとつ落ちていない。けれど、蓋は閉じられていて、傍らには使われていないことを示すような札が立てられていた。どうして掃除だけはされているのだろう。気になって、少し覗き込んでみる。暗くて底までは見えない。耳を澄ますと、微かに水の音がする。井戸の中にまだ水があるらしい。蓋の隙間から差し込む光が、水面をぼんやり照らしていた。その時、小さな赤いものが動いた。金魚だった。一匹だけではない。よく目を凝らしてみると、何匹もいる。赤、白、赤と白の斑。けれど、泳いでいるのはほんの数匹だった。水面には動かない金魚がいくつも浮かんでいる。底にも沈んでいるものが見えた。生きている金魚の周りを、死んだ金魚が漂っている。どうしてこんなところに金魚がいるんだろう。祭りの金魚すくいで持ち帰れなくなったものを誰かが入れたのだろうか。昔からここにいるのだろうか。それとも、誰かが何度も捨てていったのだろうか。考えても分からない。井戸の中には、人間には分からない時間が流れているような気がした。生きている金魚は、死んだものの間を縫うようにして泳いでいる。少しだけ近づくと、驚いたように逃げていった。逃げた先にはまた別の金魚がいる。思ったより元気に動いている。何とかして外へ出してやれないだろうか。そう思って、近くに落ちていた柄の長い網を探した。古いものだったけれど、網の部分はまだ使えそうだった。井戸の中へ差し入れて、死んだ金魚を一匹すくい上げる。軽かった。水から出すと、さっきまで水の中にあった赤い色が少しだけ鮮やかに見える。もう一度網を入れる。今度は二匹。さらにもう一度。何度も繰り返して、できるだけ死んだ金魚をすくい上げた。生きている金魚まで傷つけないように気をつけながら、ゆっくりと網を動かす。全部は取りきれなかった。それでも、見える範囲に浮かんでいたものはだいぶ減った。すくい上げた金魚をどうしようかと考える。庭に埋めることもできる。でも、何となく土の中へ戻す気にはなれなかった。昨日の線香花火を思い出す。燃え尽きて、煙になって消えていった小さな火。今日は死んだ金魚を前にしている。どちらも、もう戻ることはない。近くに小さな川が流れているのを思い出した。そこまで運んで、網から一匹ずつ水へ流した。川の流れに乗って、金魚はゆっくりと下流へ流れていった。自然に帰す、なんて言えば聞こえはいいけれど、本当にこれでいいのかは分からない。ただ、井戸の中に残しておくよりはいいと思った。最後の一匹を流して、井戸へ戻る。生きている金魚はまだ数匹残っていた。もう一度だけ網を入れてみる。赤い身体が水の中を素早く横切った。網を動かす。逃げられる。もう一度。やっぱり駄目だった。井戸の壁に沿って泳いで、暗いところへ隠れてしまう。何度やっても捕まえられない。無理に追いかければ傷つけてしまいそうだったので、諦めることにした。生きているなら、それでいい。死んだ金魚は外へ出した。生きている金魚は、まだ井戸の中にいる。それだけだった。帰る前にもう一度井戸を覗く。暗い水の中で、小さな赤い影が動いている。ちゃんと生きている。少しだけ安心した。貴女なら、きっと全部捕まえようとしただろう。そう思って、少し笑う。けれど、捕まえられないものを無理に手元へ置く必要なんてないのかもしれない。そう考えながら、井戸を後にした。午後の陽射しはまだ暑かった。八月も、残り少ない。蝉の声を聞きながら、ゆっくりと家へ戻った。




