線香花火
八月二十五日火曜日晴れ
夕方、近くのスーパーまで買い物に出た。食べるものをいくつかカゴに入れて、帰ろうとしたところで線香花火が目に入った。小さな袋に何本か入っているだけのものだった。そういえば、今年はまだ花火をしていない。貴女といた頃は、夏になると一度くらいはやっていた気がする。買う予定なんてなかったのに、気がつけばそれもカゴの中に入れていた。帰ってから夕飯を済ませ、暗くなるのを待つ。祖父母の家の庭は思っていたより広い。草が伸びているところもあるけれど、花火をするくらいなら問題なさそうだった。バケツに水を張って、線香花火を一本だけ持って外へ出る。火をつけると、先端が小さく赤く光った。ぱち、ぱち、と控えめな音がする。最初は細い火花がいくつか散るだけだった。それから少しずつ大きくなって、黄色い光が枝のように広がる。綺麗だった。派手な打ち上げ花火とは全然違う。誰かに見せるようなものでもない。ただ、手の先で小さな夏が燃えている。貴女と花火をした時は、もっと騒がしかった。「落とさないでね」と言われたそばから火花を落としてしまったり、どちらが最後まで残せるか競争したりした。貴女はいつも、最後の一瞬まで線香花火を見ていた。火の玉が落ちると、「あーあ」と残念そうに言う。それからすぐに次の一本へ手を伸ばす。そんなことを思い出しながら、一本目が消えるのを見届けた。二本目に火をつける。今度は少し長く続いた。昨日、駅前で見た人たちのことを思い出す。仕事へ向かう人たち。学校へ向かう人たち。みんな明日も同じように一日を始める。僕も、そうなるのだろうか。新しく職を探して日常にしていく。朝起きて、支度をして、決められた場所へ行く。誰かと話して、業務をこなして、家へ帰る。そういう生活に戻ってしまうのだろうか。けれど、その先のことを考えると、どうしても昨日の言葉に行き着いてしまう。覚悟を決めなければならない。そう思うだけで、胸の奥が少し重くなる。まだ何も決めらていない。ただ、もう目を逸らしたままではいられないことだけは分かっていた。貴女のことを思い出すたびに、あの日のことも一緒に思い出す。それでも、この夏に見てきたものは全部夢にすぎない。山の緑も、風鈴の音も、海の匂いも、流れ星も、祭りの明かりも、今日の小さな火花も。貴女がいなくなったあとにも、夏はちゃんと続いていた、けれどだ。三本目に火をつける。火花がぱちぱちと弾けて、暗い庭をほんの少しだけ照らす。いつか、この夏のことを思い出す日が来るのだろうか。貴女のことだけではなく、自分が何を見て、何を感じていたのかまで。そんなことを考えているうちに、火の玉がぽとりと落ちた。煙が細く上へ昇っていく。線香花火は終わった。残りはあと少し。もう一本に火をつけた。激しい落雷のような線香花火。貴女はずっとそう言っていた。形が似ているらしい。明日も、その次の日もある。まだ夏は終わっていない。だから今夜は、これ以上考えないことにした。バケツの水に花火の残りを入れる。じゅ、と小さな音がして、煙が消えた。夜空を見上げる。星は少ししか見えない。それでも、見上げることくらいはできる。明日になれば、また明日の夏が来る。そう思いながら、僕は家の中へ戻った。




