神社
八月十九日水曜日晴れ
昼前頃から神社へ向かった。昨日の夜に決めた通り。祭りの会場からずっと海岸を沿って行ったところにある。帰省した時には祖父母に連れられて何度か行ったことがある神社だ。今日が祭りの最終日なのもあって、道に人が多い。元気な小学生集団や、浴衣を着て写真を撮っている大学生くらいの子たち、様々だ。海岸沿いの道をしばらく歩いていくと、神社の鳥居が見えてきた。昔より小さく感じる。子供の頃はもっと大きくて、鳥居をくぐるだけで別の世界に迷い込んだみたいな錯覚に陥っていたが、今ではそんなことはなかった。
境内に入る。参道の両脇には大きな木が並んでいて、日差しが葉の隙間から落ちている。昨日の祭りとは違って、人はほとんどいない。手水舎へ向かう。柄杓を取って水を汲み、左手を洗う。次に右手。昔、祖父に「順番があるんだぞ」と教えられたことを思い出した。最後に口をすすぐ真似をする。子供の頃は意味も分からずやっていた。今になっても、正しい意味まではよく分からない。それでも身体が覚えている。手を拭いて拝殿へ向かう。賽銭箱の前に立つ。財布から小銭を出して、そっと落として入れる。これも祖父に「投げ入れちゃいかん」と教えられたからだ。ちゃりん、と音がして、鈴を鳴らす。大きな音が境内に響いて、蝉の声が一瞬だけ強くなった気がした。二礼二拍手一礼。これも祖父に教えてもらった。子供の頃は二回頭を下げることも、二回手を叩くことも面倒だった。早く終わらせて一刻も早く境内から抜け出して、祖父の家に行きたかった。今は何を願えばいいのか分からない。ひとまず目を閉じる。家族が元気でいられますように、と願ったことがあった。試験に受かりますように、と願ったこともある。祖父母が長生きしますように、と願ったこともあった。今なら何を願うべきだろう。もう叶わないことを神様に頼むのは、少し卑怯な気がする。それなら、僕がこれから見ていくものを忘れませんように。それくらいでいいのかもしれない。目を開ける。顔を上げると、拝殿の屋根の向こうに青い空が見えた。もう一度だけ頭を下げて、賽銭箱から離れる。境内を少し歩いてみる。社殿の脇には小さな石碑がいくつか並んでいる。何が書いてあるのか読めないものもあった。御神木らしい大きな木にも近づいてみた。幹が太くて、両手を広げてもとても届きそうにない。表面はごつごつしていて、ところどころ苔が生えている。子供の頃、この木の周りを何周も走ったことを思い出した。祖母に怒られて、祖父には笑われた。そんな記憶だけは妙に鮮明だった。母さんの方は一緒に出かけたのも数えるくらいだった気がする。元々あまり体が強くなかった祖母が亡くなって、その後少ししてからおじいちゃんも亡くなった、祖父も前日くらいまで元気だったはずなのに急に亡くなって、もうあとはおばあちゃんだけになった。おばあちゃんは意外にも認知症の進みも遅かったし、もう少し長生きするかもしれない。あの家に戻る予定はないが、いいんだろうか。
境内の隅には小さな社もあった。せっかくだからこちらにも手を合わせる。しばらく境内のベンチに座る。風が吹くたびに木の葉が揺れて、影が地面を動いていく。遠くで車の音がする。蝉の声が途切れると、境内は驚くほど静かだった。後ろから鈴を転がしたような笑い声が今にも聞こえてきそうな気がする。一度でいいから貴女をここに連れてくればよかった。幽霊は怖がるし、墓場も怖がるくせに、神社は好んで巡っていた。霊よりも神の方が怖い気がするが、そんなのはさほど重要じゃなく、空気感が好きだと言っていた。そんなことを考えて、少し笑った。そろそろ祖父母の家へ行こう。立ち上がって鳥居をくぐる。振り返ってもう一度神社を見る。やっぱり昔より小さく見えた。そこから祖父母の家までは歩いて二十分ほどだった。道はなんとなく覚えている。昨日祭りから戻る時とは反対方向へ歩く。角を曲がる。小さな公園が見えてきた。昔はここで祖父と一緒に蝉を探した。今は遊具が新しくなっている。さらに歩くと、古い商店が一軒だけ残っていた。祖父にアイスを買ってもらった店だった気がする。まだ営業しているらしく、店先に飲み物の箱が積まれている。少しずつ記憶が戻ってくる。夏休みにここへ来ると、朝は祖母に起こされて、昼は近所を歩いて、夕方になると祖父と縁側に座っていた。特別なことは何もしていなかった。けれど、そういう何でもない時間ほどよく覚えている。道の角を曲がる。見覚えのある塀があった。その先に、祖父母の家が見えてきた。思っていたよりずっと普通の家だった。庭の草は伸びていて、郵便受けには何枚かのチラシが溜まっている。誰も住んでいないのだから当然だ。鍵は持っている。祖父母が亡くなったあと、父から預かったままだった。玄関を開ける。中は少し埃っぽい。空気が濁って微動だにしない。靴を脱いで上がる。懐かしい匂いがした。古い木と畳と、何か甘いような匂い。居間へ行って、縁側の戸を少しだけ開ける。風が入ってきた。畳の上に座る。何もせず、そのまま目を閉じる。ここに来るのは久しぶりだった。貴女にも一度見せたことがあった気がする。けれど今は、貴女の記憶よりも、自分が子供だった頃の記憶の方がずっと近かった。庭から蝉の声が聞こえる。昔と変わらないような気がする。しばらくここで休んでいよう。そう思って、僕は畳の上に横になった。




