車窓
八月十二日水曜日曇り
荷物をまとめて女将さんに部屋の鍵を返して外に出る。素泊まり二泊で三千五百円、安くて驚いた。
バス停でしばらくボロボロの時刻表を見ながら待っていた。予定より二十分遅れてやってきたバスに乗り込む。中にはご老人が一人座席に座って眠っているだけで、あとは運転手以外いなかった。中途半端に遠出をする前に墓参りのことを思い出せれば、こんなに酔いやすそうな山道をバスに揺られることはなかったのだが、新幹線を使わなくてよくなり交通費が浮いて良かったと思い込むことにした。急ぎの用事なら大問題だが、時間ならたくさんある。
昨日歩いた山が見えている。宿を出た時には木々しか見えなかったけれど、バスが走り始めると山の斜面が少しずつ遠ざかっていく。道路のすぐそばまで草が伸びていて、時折大きな岩や古い木が見える。人の手が入っているのかいないのか分からない場所が続く。
人のいない停留所をいくつも過ぎていく。山の間を縫うように伸びた道路をずーっと進んでいく。トンネルを抜けるたびに景色が少しずつ変わる。山の斜面が低くなって、木々の向こうに畑が見えるようになった。畑には野菜が並んでいる。トマト、ナス、きゅうり、とうもろこし、どれも旬の夏野菜だ。ところどころに農家らしい家があり、庭先には軽トラックが停まっている。物置の脇に農具が立てかけられていて、軒下には何かを干している網が吊るされている。
さっきまで人の影も見えない山の中だったのに、人が暮らしている痕跡が急に増えてきた。
次の停留所では数人が乗ってきた。高校生らしい制服姿の人もいる。眠そうに座席へ腰を下ろして、スマートフォンを眺めている。僕の知らないいつも通りの朝がここにはある。ぼんやりと外を眺めながら見ないフリをした。
またいくつか停留所を過ぎると、次第に住宅地が広がっていく。一軒一軒の間隔が狭くなって、道路も少し広くなる。交差点には信号機があり、コンビニの看板が見えた。小さな踏切を通る。線路の向こうには学校があった。校庭には誰もいないけれど、校舎の窓には朝の光が反射している。
さらに進むと、アパートがいくつも並び始めた。洗濯物がベランダに干されている。自転車が何台も置いてある。駐車場には同じような車が並んでいて、その一台から出てきた人が慌ただしく駅の方へ歩いていく。
こうして人の暮らしが増えてくると、今度は自分だけが取り残されているような気がしてくる。
バスが終点に着いてみんな一斉に降りる。少し大きめの駅だ。駅前には商店が並び、パン屋から甘い匂いがして、交差点には通勤する人が何人もいる。タクシーが客を待っている。自転車に乗った学生が横断歩道を渡っていく。数時間前まで、山の中で鹿を見ていたのが嘘みたいだった。
改札を通ってそのまま電車に乗る。窓の外に流れる景色が、もう山ではなくなっていく。高い建物が増えて、道路も広くなる。歩道には街路樹が並び、その下を人が歩いている。大きな看板や駐車場、ファミリーレストラン、ドラッグストア。見慣れたものが次々と現れてくる。
知らない場所なのに、知っているような景色だった。都会というほどではない。車が走る音、信号機の音、店の自動ドアが開く音、誰かの話し声。
何駅か過ぎると海が見えてきた。電車を降りて少し歩く。駅前から離れると住宅街が続いている。知らない家。知らない店。知らない人。それなのに、どこか懐かしく感じる。
山の中では木々に囲まれていた空が、ここではどこまでも開いている。潮の匂いがする。嗅いだことのあるあまり好ましくない匂い。
堤防まで行って、海を見る。波が何度も岸へ寄せている。山から人の暮らす場所へ。そして、その先に海がある。
今日一日で、景色がずいぶん変わった。貴女が見ていた夏も、こんなふうにコロコロ変わっていたのだろうか?
海から吹いてくる潮風の中、海の匂いと一緒に嫌な記憶も波に掠われてしまえば……




