山
八月十一日火曜日晴れ
朝から山へ入った。奥の方まで行かなければそこまで深くなく安全に帰って来れると女将さんに教えていただいた。本当は今日にでも祖父母の墓の方に向かおうかと思っていたが、急ぎでもない。それになんだか気になった。荷物は宿に置きっぱなしにして、必要最低限だけ持ってきた。
昨日の夜は暗くてよく分からなかったけれど、昼間に見る山は思っていたよりずっと緑が濃い。道の両側から木々が覆いかぶさって、ところどころ空が見えなくなる。昨日も聞こえたが、蝉の声が近い。どこにいるのか探してみても、葉っぱに紛れて全然見つからない。たまに木の幹に抜け殻が付いている。一つ見つけると、少し先にもまた一つある。
足元には台風で落ちた葉っぱや枝が積もっていて、踏むたびに乾いた音がする。少し進むと道が細くなった。舗装もなくなって、土がむき出しになって、獣道に近い。
木々の間から光が差し込んでいる。風が吹くたびに葉が揺れて、地面に落ちた光まで揺れているように見えた。木々の葉の隙間から見える空は、町で見るよりずっと小さい。遠くから鳥の声が聞こえる。川の音もする。貴女の見ていた夏を見ようとすればするほど、現実が夢味を帯びていく。今にも消えてしまいそうな哀しさが、いつまでもつきまとう。いつまでもこんな気持ちになるのなら、そのうち気が触れてしまいそうだった。
もう少し奥まで歩いていくと一匹の雄鹿にあった。立派な角を携えて、静謐で厳かだ。雄鹿はすぐにいなくなってしまったが、しばらくその場から目が離せないでいた。
雄鹿の消えた方をしばらく眺めていたが、もう姿を見つけることはできなかった。枝葉の隙間から差す光が地面をまだらに照らしている。少し湿った土は柔らかく、靴底が沈むたびに小さく音を立てる。木の根がいくつも地面から這い出していて、時折それに足を取られそうになる。名前も知らない草があちこちに生えていて、小さな虫が葉の裏を忙しなく動いていた。山の中には、僕が知らないものがいくらでもある。貴女なら一つ見つけるたびに立ち止まって、僕にも教えてくれただろうか。それとも、僕が気付くより先にどこかへ行ってしまっただろうか。そんなことを考えていた。墓参りのついでだったはずなのに、いつの間にか貴女の夏を探している。けれど、どれだけ歩いたところで貴女が見ていたものと同じものを見られるわけではない。それでも、不思議と帰ろうとは思わなかった。しばらくして、これ以上先へ進むのはやめることにした。道があるのかどうかも分からないところまで行く必要はない。来た道をゆっくり戻る。木々の間から見える景色が少しずつ開けていくと、宿の屋根が遠くに見えた。思っていたより長く歩いていたらしい。足は少し疲れていた。宿に戻って時計を見る。まだ昼過ぎだった。今日はもうどこへも行かなくていいだろう。窓を開けると、遠くの山が見える。さっきまであの中にいたのだと思うと、少しだけ妙な気分になった。貴女の見ていた夏は、まだどんなものだったのか分からない。貴女を通して僕が見ているだけだ。けれど、分からないままでもいいような気がした。




