第2話「森の少女ミレア」
この国には、笑いがない、
でも――楽しいと感じる瞬間は、確かにある。
それが「笑い」と同じものなのか、違うものなのか。
まだ誰も知らない。
レインは、ただ観察している。
森の中で、ミレアはしゃがみ込んでいた。
葉っぱの上を、小さな虫が歩いている。
「かわいい」
ミレアはそう言って、指をそっと近づけた。
虫に、そんな感情を向けるものなのか。
虫は慌てて葉の裏に隠れる。
「逃げた」
ミレアはくすっと笑った。
レインは言った。
「お前、虫を見ていて楽しいんだな」
ミレアは嬉しそうに答えた。
「うん!」
レインも虫を見ながら言う。
「それは……娯楽なんじゃないのか」
ミレアは虫を観察しながら首をかしげた。
「ゴラクはわかんないけど、好きだよ」
レインは少し考えるように黙り込んだ。
ミレアはふと顔を上げる。
「そういえば、クラス違うよね? 別の学年の子?」
「違う」
レインは少しムッとした顔で言った。
「俺は今年、十六歳になる」
「えっ?」
ミレアは意外そうにレインを見る。
「一つ上だったんだ。私、同じ年だと思ってた」
レインは胸を張る。
「俺はいつも若く見られてしまうからな」
なぜか偉そうだった。
そしてポケットからノートを取り出す。ぱらりと開き、ペンを走らせる。
『虫
逃げる
隠れる
反応早い』
字は相変わらずひどいものだった。
ミレアが横から覗き込む。
「それ、自分で読めるの?」
「読める」
レインは真顔で答えた。
「俺にしか読めない」
「へぇ」
ミレアは感心したように頷いた。
それから草むらを指差す。
「ねぇレイン、今度はあっち」
レインが顔を上げると、草の陰に小さなカエルがいた。
葉っぱとよく似た色をしている。
ミレアは嬉しそうに近づいた。
「この子、ここに住んでるんだよ」
「知っているのか」
「うん、昨日も見たもん」
ミレアは地面に手をつき、カエルをじっと見つめる。
レインはその様子を観察していた。
(この子は……観察がうまい)
ミレアは、触らない。
ただ、じっと待っている。近づいても驚かせず、カエルの動きを待っている。
レインはノートに書き加えた。
『ミレア
観察◎』
ミレアは気づかず、夢中でカエルを見ている。
「ねぇレイン」
「ん」
「学校行かないの?」
レインは少し考えた。
「行ってる。……今日は休みだ」
「そうなんだ」
ミレアは頷く。
「学校って、つまんないよね」
レインは顔を上げた。
「つまらないのか?」
「うん」
ミレアはそのまま地面に座り込んだ。
「みんな同じことしかしないもん」
レインは黙って先を促す。
「何をしているんだ、学校で」
ミレアは少し考えてから答えた。
「うーん……おしゃべりとか」
「何を話す」
「昨日、何を食べたとか」
「……」
ミレアは続ける。
「あとね、外で石を投げたりするよ」
「石?」
ミレアは立ち上がり、小石を拾った。
「こうやって。ポーンって」
石を遠くへ投げる。
「遠くまで飛んだ人が勝ち」
レインはその軌道を目で追った。
「それで?」
「うん」
「……それで終わりか?」
「そう。それだけ」
ミレアは笑って、
またしゃがみ込み、今度は別の虫を見つけていた。
「この子は速いよ!」
虫が葉の上を走り、ミレアの指から逃げる。
ミレアは笑う。
「ほら、見て!」
レインはその動きを凝視していた。
虫、カエル、葉っぱ。
自然にはすべて理由がある。動きにも意味がある。
でも――人間の笑いは違う。
レインは小さく呟いた。
「……分からない」
ミレアが顔を上げる。
「何が?」
レインは少し考えてから言った。
「『昨日の夜は暗かったな』」
ミレアは首をかしげる。
「?」
「みんな、こう言うとクスクス笑うんだ」
レインは真顔のまま、教室で見た「不自然な笑い」を真似してみせた。
「それ、面白いの?」
ミレアは不思議そうに聞いた。
「みんなこうやって笑うだろう?」
ミレアは少し考えた。
「知ってる。でも、面白いと思ったことは一度もないかな。理由は分からないけど」
ミレアはしばらく黙って、またカエルを見た。
「でも、生き物見てるとさ……なんか、楽しくなるんだよね」
「楽しいから、笑うんじゃない?」
レインは言葉を失った。
(楽しいから?)
ミレアは笑う。
「レインって変だね」
「ミレアもな」
「でも、面白いよ」
レインは顔を上げる。
「面白い?」
ミレアは大きく頷いた。
「うん!」
その瞬間。
レインの口元が、わずかに動いた。
――笑ったのか?
自分でも、分からなかった。
「……なんだ、これ」
草むらの奥で、ミレアが笑っている。
レインは、それを見ていた。
ミレアは、自然に笑っていた。
理由があるから楽しい。
楽しいから、笑う。
それは、とても当たり前のことだった。
――なのに。
レインには、それが分からない。
同じ「笑い」のはずなのに、
どこか噛み合わない。
小さな違和感だけが、残った。




