第六章(3):歪んだ再誕、虚無の理
世界のどこか、薄暗く、狭い、埃っぽい……お世辞にも快適とは言えないような部屋で、カスパールはうっすらと目を開けた。
彼の体は、悪魔ヴェクスと戦っていた、あの頃の大魔導士カスパールの、青年の姿だ。
しかし、以前は肩で綺麗に切り揃えられていた、黒曜石のような黒髪は胸あたりまで長く伸びている。
全てを見透かすような鋭い紫色の瞳は、以前よりも鋭さを増していた。
そして、彼の頭の中には、前世の全ての記憶と、転生した先の、この部屋での、そしてこの体での、最近の、あまりにも辛い記憶が、同時に、怒涛のように流れ込んできていた。
転生したこの世界での、貧困、理不尽な扱い、そして……時折受けてきた、心ない罵倒や体罰の記憶。
「俺が……! あのカスパールが……! こんな場所で……こんな扱いを……受けるだと……!? ふざけるな……っ!」
転生したカスパールは、あの後没落した、あるいは元から貧しい家系に、青年として生まれ落ちたようだった。
彼の転生後の人生は、平穏とはかけ離れていた。十分な食事も与えられず、着るものもボロボロ。
かつて天才と称えられ、ルシアンに次ぐ実力者だったという前世の輝かしい記憶と、現在の見下され、虐げられる現実。その途方もないギャップが、カスパールの心を深く抉った。
彼の心は荒んだ。
人間なんて、結局は自分より弱い者を見下し、利用する存在だ。
優しさなんて幻想だ。
信じても、最後には裏切られるだけだ。
そうやって、彼は心を閉ざし、誰にも頼らない、一人で生き抜くという道を選んだ。
「フワフワ……」
そう呟きながら、カスパールはローゼリアにもらったチェーンネックレスに触れた。
その瞬間、ふわふわなウサギのようなピンク色の生物が「ポン!」と現れて、肩にのった。
そのふわふわな感触が、彼の荒んだ心に、かつて確かに存在した、記憶を呼び覚ます。
そして、転生前にいた、あの場所のことを思い出す。
***
(カスパールの回想)
俺の脳裏には、禁忌を犯したあの瞬間の記憶が蘇っていた。
自らの命を削り、魂を歪ませてまでルシアン様の行方を探ろうとした末、意識が途絶えた。
次に目覚めた時、俺は、ルシアン様のいる異界と、人間界の「はざま」のような場所にいることがわかった。
異界に直接踏み込むことはできないが、そのすぐ近くに存在しているのが分かった。
俺の体に突き刺さるようなルシアン様の魔力の気配……それは日に日に強大になっていく。
俺の紫色の宝珠のピアスが、まるで彼を指し示すかのように、常にその方向を向いて輝いていた。
「くそっ、あと一歩届かねぇか……!」
俺はルシアン様のいる異界の入り口らしき場所を睨んだ。どうにかして、あそこに入り込みたかった。
俺は、異界への道を探し続けた。
空間を歪ませ、次元の壁を切り裂く魔法を何百回、何千回と試した。
理論を組み立て、実践し、また壊しては組み立て直す。
だが、どんなに強大な魔法を放っても、その次元の壁は崩れない。
俺の魔法の才能を持ってしても、超えられない壁があることに、焦燥感が募った。
そんなある日、俺の耳に、遠くから声が聞こえてきた。
それは、創造神ガイア様の声だった。
「あの小僧、異界などに行きやがって。」
「バグが。秩序を乱すものはきれいにリセットせねば。」
ガイア様は、ルシアン様が異界にいることを気にかけ、その居場所を探して、この「はざま」の周囲をうろうろしているようだった。
俺がいる場所は、幸いにもガイア様には感知できない領域らしい。
「フン、俺の魔導力もなかなかだな」
俺は不敵に笑った。
この「はざま」の領域は、まさしく俺の隠れ蓑だ。
ガイア様の声を盗み聞きするうちに、俺は、彼女の思惑を知ることとなる。
「ヴェクスも何もすべてはガイアが仕組んだことだったとは……」
この狭間のようなところには、そこそこ魔物もいた。そいつらを倒しながら、ひたすらルシアン様のいる異界への突破口を探す。
それでも、さすがに、ずっと一人でいるのは退屈だった。
そんな時、俺は人間界の仲間たちのことを思い出した。
特に、ローゼリア。
いつも優しく、俺を心配してくれた。
研究室に温かいスープを届けてくれた彼女の、ふわりとした甘い香りが、今もこの無味乾燥な空間に漂う幻のように感じられた。
森に行くと言った俺を、必死に止めてくれた、あの震える声。
そして、あの時、彼女が俺にくれた、祈りのこもったチェーンネックレス。
ひんやりとした金属の感触と共に、彼女の優しさが確かにそこにあった。
俺は、紫色の宝珠のピアスと共に身に着けていたそのチェーンネックレスをそっと撫でた。
その瞬間、まるで呼応するかのように、フワリ、と俺の目の前に、ピンク色のふわふわとした毛並みの、可愛らしいウサギのような生き物が現れた。
「なんだ、お前?」
俺ははじめ、興味を示さず、相手にしなかった。
しかし、そのウサギは俺の周囲をちょこちょこと跳ね回り、寂しげに鳴いたり、俺の足元に擦り寄ったりする。
退屈な「はざま」の空間で、そのウサギは、俺の唯一の話し相手、いや、唯一の「存在」となった。
「チッ、しょうがねぇな」
俺はツンデレっぽく言いながら、そのウサギを肩に乗せたり、頭を撫でてやったりするようになった。
魔物との戦いでは、そのウサギは、俺の隣で、まるで舞を踊るように軽やかに跳ね回り、小さな魔力弾で魔物の注意を惹きつける。
俺は「虚無創生」の力を振るい、虚空から漆黒の魔槍を生み出し、一瞬で魔物を貫く。
あるいは「異界召喚」で、漆黒の煙の中から鋭い爪を持つ従属魔物を呼び出し、ウサギと共に連携して、あっという間に敵を殲滅する。
ウサギの存在は、孤独な「はざま」での生活に、ささやかな彩りを与えてくれた。
そんなある日、突然、虚無の暗闇を切り裂く一筋の光が、遠く、微かに瞬いた。
それは、まるで俺の内なる焦燥に呼応するかのように、みるみるうちに力強く輝きを増していく。
耳元の紫の宝珠を嵌めたピアスが熱を帯び、光と共鳴し始める。
その輝きは、確かな『道』を形作っていくのだった。
次の瞬間、首筋に触れるローゼリアのネックレスがじんわりと温かくなり、肩にいたあのピンクの塊が、眩いほどの光を放ち始めた。
見慣れた柔らかな毛並みが光に包まれ、そのまま、俺の頬にそっと擦り寄ってくる。
その小さな温かさと輝きは、この孤独な狭間に射し込んだ、唯一の光……いや、希望のようだった。
その光に包まれ、視界が白く染まった。
(カスパール回想終わり)
***
カスパールはその狭間の中で、ある真理にたどり着く。
ガイアの「完璧な秩序」は、生命や自由な意思を「バグ」とみなし、排除しようとする。
その行為こそが、世界に不必要な「歪み」を生んでいるのだと。
彼は狭間の中で、その真理を深く理解した。
彼はまず、自分の意思に従う、「従属魔物」のような存在を、次々と生み出していった。
そして、それは、ガイアの「創造」とは異なる、根源的な「虚無創生」の力。
ガイアの企みが分かった今、カスパールの瞳の奥には、憎しみと、そして悲しいほどのルシアンへの執着が、同時に輝いていた。
「ルシアン様もいないこの世界……いっそ、めちゃくちゃにしてやろうか。ガイアが『美しい世界』が好きだと言うのなら、それをめちゃくちゃにして、ついでに人間も巻き込んだって、どうってことねえだろ。どうせ人間なんて、俺を虐げた愚かな存在だ。ルシアン様のいないこの世界など、ガイアと共に滅びてしまえ……!」
そんな彼の、荒んだ手に、ふと、温かい光を放つ紫色の宝珠が珠の状態で現れた。
「これは……ルシアン様が、俺に……遺してくれたもの……。そして、ルシアン様へと続く道標……。」
彼を探し出したいという、心の奥底に、決して消えることなく燃え続けていた願いが、再びカスパールを突き動かし始めたのだ。
「ルシアン様……!」




