第六章:不滅の包帯歩兵、ねずみ男に化す
「……さ、佐藤上等兵……。便所は、どこだ……っ」
冷や汗で全身の包帯をじっとりと濡らし、血の気が完全に引いた形相(包帯だが)の黒金巌伍長は、焼き潰れた喉から消え入りそうな掠れた声を出した。
「え、ええっ!? 便所なんてこの泥壕陣地にあるわけないでしょう! 兄やん、そこらの草むらへ!」
佐藤上等兵が慌てて叫ぶ。巌は、あきれ果てて天を仰いでいた遠藤看護婦と、同郷の佐藤の二人に両脇を抱えられ、陣地の裏手の鬱蒼とした茂みへと引きずられていった。
手先が致命的におっちょこちょいで不器用な巌には、自分の手で下半身の包帯を解くなど到底不可能だった。
「す、すまん……! 解いてくれ……!」
「もう、本当に手がかかるミイラ男なんですから!」
遠藤看護婦が怒声を上げ、佐藤と二人がかりで、泥と血にまみれた巌の下半身の包帯を、大急ぎで引きはがすように毟り取った。
巌が、むき出しの尻を泥濘へ向けてしゃがみ込んだ、まさに次の瞬間だった。
ババババババババババーーーーーンッッッッ!!!!!
静まり返ったフィンシュハーフェンのジャングルに、丸太の対戦車壕すら震動させるほどの、大音量の破裂音がけたたましく鳴り響いた。
それと同時に、熱帯の猛烈な熱気と混ざり合い、「発酵した牛糞」の凄まじい激臭が、一瞬にして辺り一帯の空気をドス黒く包み込んだ。
「う、うわあああああああッッッ!!」
あまりの衝撃的な音と、鼻腔を直撃したこの世のものとは思えない大量の排泄物の異臭に、佐藤上等兵は目を回し、その場に四つん這いになって激しく嘔吐した。
一方で、凄惨な戦場の修羅場をいくつもくぐり抜けてきたはずの遠藤看護婦は、あまりの常軌を逸した排泄量とドス黒いヘドロのような質感に、逆に冷静さを突き抜けて唖然と立ち尽くし、脳内でポツリと思った。
(……これ、生体防御の奇跡だわ。戦後、医学の学会に論文として発表できるレベルよ……)
だが、地獄の生理現象はこれだけで終わらなかった。
巌が最後に、焼き潰れた喉から「ぬ、ぬううううっ……!」と大きく一いきみした、その瞬間。
見守っていた二人は、自分の目を疑うような、信じられない光景を目撃してしまった。
ベチャッ。
地面に叩き落とされたその大量のヘドロの山から、おぞましく蠢くように突き出ていたのは、昨日、巌が軍記上許せんという歪んだ正義感のまま生のままバリバリと貪り食った、あのまるまると太った巨大ネズミの、「未消化の長い尻尾」だったのだ。完全にネズミの形を保ったままの細長い皮と尻尾が、泥の上に生々しく転がった。
口をアングラと開けて口が塞がらない佐藤上等兵は、涙目でネズミの尻尾を指差し、絶叫した。
「うわあああーーーッ!! ミイラ男が、あろうことか『ねずみ男』に化けやがったーーーッッ!!」
そんな周囲の大パニックを余計に、当の黒金巌伍長は、内臓の毒素を全て出し切ったことによる、かつてない圧倒的な「安堵感」と「最高の爽快感」に包まれていた。
「……ふぅ……。すっきりした……」
巌は晴れやかな真顔(包帯だが)になり、そのまま「お待たせ」とばかりに、何の悪気もなくのそりと二人のほうへ振り返った。
しかし、下半身の包帯をすべて解かれた巌の姿は、前装もへったくれもない、完全なる「フリちん姿」であった。
朝靄の中に堂々と直立する、上半身は完全軍装、下半身は剥き出しの哀れなミイラ男。
「いや、すまなかったな、二人とも――」
巌が掠れた声で爽やかに語りかけようとした、その刹那。
ドガッッッ!!!!!
「この、変態ミイラ伍長がああああーーーーッッ!!!」
悲鳴と共に、泥と血に汚れた遠藤看護婦の、腰の入った見事な右フックが巌の包帯の顔面に完璧に炸裂した。
「ぶふっ!?」
不滅の肉体のはずの巌は、看護婦の渾身の鉄拳によって物理的に消し飛ばされ、草むらの中へと派手に真っ逆さまに突っ込んでいった。
「な、何事だッ!? 陸軍の敗残兵どもが、朝から我が海軍のシマで何の騒ぎを――」
その、フリちんのミイラ男が右フックで吹っ飛ぶという地獄のような騒ぎを聞きつけ、泥壕の奥から第三種軍装をキチッと着込んだエリート・大槻海軍大尉が血相を変えて飛び出してきた。
しかし、目の前で褌すら穿いていない全身包帯の陸軍伍長が、草むらで足をバタつかせ、佐藤が嘔吐し、看護婦が拳を握り締めているという、あまりにもカオスで狂気じみた光景を前に、大槻大尉は腰の海軍刀を握ったまま、ただただ呆然と立ち尽くすことしか出来なかった。
(第七話へ続く)




