第五章:第三種軍装の傲慢
ザクッ、ザクッ、カツン……。
フィンシュハーフェンの鬱蒼としたジャングルの片隅で、泥まみれになりながら円匙で対戦車壕を掘っていた陸軍の残存兵たちは、突如として眼前に現れた異様な光景に、動かす手を完全に止めて目を見張った。
朝靄の向こうから歩いて近づいてくるのは、擦り切れて泥と血に汚れた国防色の白衣を着た、一人の従軍看護婦。
そしてその横には、手に入る限りの粗末な包帯を全身にグルグルと巻き付け、衣服も階級章も炭化した、どう見ても正体不明の「重症患者のミイラ男」――。だがそのミイラ男は、背嚢から弾薬盒に至るまで乱れなき完全軍装を身につけ、右手には下士官用の九五式軍刀を握り締めているのだ。あまりの不気味さに、兵士たちは銃を構えることすら忘れて硬直した。
「……おーい。……佐藤上等兵……っ」
包帯の隙間から、焼き潰れた喉を震わせたかすかに掠れた標準語が響いた。
円匙を握っていた同郷・東京の下町出身の佐藤上等兵は、その不器用な声の響きに一瞬で気づき、泥の中にショベルを放り出した。
「い、巌の兄やん!? ――黒金伍長どのォォォッッッ!?」
佐藤は泥まみれの顔にボロボロと涙を流し、巌の包帯の身体にすがりついて感動の再会を果たした。そして、この陣地の絶望的な現状――食糧も水もなく陸軍兵が餓死寸前であること、そして海軍が物資を独占していることを、悔しさに声を震わせながら全て巌に報告した。
「貴様、何者だッ! 陸軍の敗残兵が、我が海軍のシマで何をコソコソと騒いでいる!」
泥壕の奥から、冷酷で高圧的な怒鳴り声が響いた。
現れたのは、海軍兵学校を優秀な成績で卒業した超エリート、大槻海軍大尉だった。彼は、熱帯の前線における臨時の戦闘服である、青色(カーキ色)の第三種軍装を隙なくビシッと着込み、自慢の海軍刀を腰に帯びていた。その身なりの贅沢さは、褌一丁に近い陸軍兵たちの困窮とはあまりにもかけ離れていた。
巌は不滅の怪異となっても、カチカチの現役兵としての軍紀を崩さなかった。九五式軍刀を左手に持ち替え、大槻大尉に向けてピシッと正しい陸軍式の敬礼を放ち、焼き潰れた喉から国籍と性官名を大真面目に申告した。
「……陸軍歩兵伍長、黒金巌……!」
大槻大尉は、その包帯グルグル巻きの不気味な姿をフンと鼻で笑い、ナメきった目を向けた。
「ふん、陸軍の腰抜けがまた一人、手負いのミイラになって増えただけか」
大槻は胸ポケットに入った上等なタバコの箱を叩きながら、今の現状を理不尽に怒鳴り散らした。「あの伊一潜水艦が沈んで以来、我が方の補給がどれだけ細ったか! 次の伊一七七潜水艦が来るまでは、我が海軍の物資は一粒たりとも陸軍の敗残兵どもには渡さん!」
横に立つ遠藤看護婦は、そのあまりの理不尽な物言いと、一触即発の陸海の空気の恐ろしさに、ただオロオロと震えて顔を青くするばかりだった。
だが、大槻大尉の傲慢な言葉を聞くうちに、巌の包帯の奥の脳味噌には、ふつふつと激しい怒りが湧き上がってきた。
(大本営の理不尽な上官は大嫌いだが……目の前でガリガリに痩せこけ、飯盒を抱いて死んでいった戦友たちを踏みにじるこの海軍の態度、皇軍として、同じ日本軍の友軍として、断じて許せん……!)
巌は一歩前に踏み出し、焼き潰れた喉を限界まで震わせて絶叫した。
「……しかし、大尉殿!! 同じ日本軍、友軍ではないのですか!! 陸軍の兵士にも、少しでいい、糧秣を分けて頂けませんか!!」
「ならん! うるさい、下士官の分際で海軍将校に口を出すな! 黙れ!」大槻が冷酷に撥ね退ける。
だが、巌の現役兵としての仁義のド根性は折れなかった。軍刀の鞘をギリッと握り締め、狂おしい渇きと飢えの怒りをそのまま声に変えて、再び怒号のように叫んだ。
「タバコとコメを分けてください!!!」
陸海の意地が泥壕の中で激突し、佐藤上等兵たちが息を呑んだ、まさにその、最高にシリアスで感動的な瞬間のことだった。
ブゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ~~~~~ッッッッ!!!!!
静まり返った混成陣地に、巌の完全軍装の腹の奥から、地鳴りのような凄まじい大音響が鳴り響いた。
「「「…………!?」」」
大槻大尉も、涙を流していた佐藤上等兵も、全員が「こ、これほど極限の空腹なのか……!」と、巌の不滅のド根性に畏怖の念を抱いた、その刹那。
一切の「痛み」を呪いで消されていたはずの巌の包帯の顔が、突如として見たこともないほど歪み、血の気が完全に引いた真っ白な表情(包帯だけど)へと変わった。
昨日、戦友の死体の横で、軍紀上許せんという歪んだ正義感のまま、あろうことか生のままバリバリと貪り食った、あのまるまると太った巨大なネズミ。そいつが、呪いの不滅の胃袋を突き破り、強烈な腐敗毒となって、巌の腸内で最悪の下痢のビッグウェーブを巻き起こしたのだ。
巌は、横にいる遠藤看護婦の顔を必死の形相で見つめ、焼き潰れた喉から、消え入りそうな掠れた声でボソッと絞り出した。
「……遠藤さん……。腹が……めちゃくちゃ痛い……。……うんこ、漏れそうだ……」
「「「…………」」」
陣地が完全に凍りついた。
さっきまで「同じ日本軍、友軍ではないのか!」と熱く仁義を語り、コメとタバコを分けてくれと漢の絶叫を放っていた全身包帯のミイラ男が、真顔で放った究極の生理的敗北宣言。
夜営の時に「股間の包帯を解け」と言われた記憶がフラッシュバックした遠藤看護婦は、怒る気力すら完全に失せ、血の気の引いた巌の顔を見つめたまま、ただフィンシュハーフェンの広大で青い空を、虚しく、静かに見上げるしか出来なかった。
(第六話へ続く)




