第四章:一選抜上等兵の生存戦略
「……絶対に変なことはしないで下さい。もし変なことをしたら、大声を出しますからね」
軍用毛布にくるまった遠藤看護婦は、泥壁にへばりついたまま、全身包帯のミイラ男――黒金巌伍長をきつい目で睨みつけ、はっきりと釘を刺した。
股間の包帯を解けなどという、あまりにも不器用で破天荒な失言をかまされたのだ。警戒するのも当然だった。
言われた巌は、包帯の奥で激しく狼狽した。
「……当、当たり前だ……! 皇軍の軍紀は、しっかり守る……! 滅相もない……」
「あなたは少し頼りありません。本当に、変なことをしたらすぐに大声を出します」
「そんなことをしたら、それこそジャングルに潜む敵(米豪軍)のいい餌食になるぞ。静かにしろ……」
焼き潰れた喉をボソボソと震わせる巌の言葉に、遠藤看護婦は呆れたような深い溜め息を漏らした。しかし、丸一日以上の強行軍による極限の疲労からか、彼女はやがて泥の上で静かな寝息を立て始めた。
一人、三八式歩兵銃を傍らに置いて闇を見つめる巌だったが、容赦のない「飢え」が炭化した腹の奥を激しく苛んでいた。原住民の呪いで死ねない身体になったとはいえ、胃袋の空虚さだけは超越できない。
その時、暗闇の中、先ほど目撃した痩せこけた日本兵の死体の山のあたりで、微かに動く物体を見つけた。
(……なんだ……?)
巌は包帯の隙間から、冷たい眼光を凝らした。
暗がりに蠢いていたのは、戦友たちの肉を貪り喰らって丸まると肥え太った、一匹の巨大なドブネズミだった。
巌の肉体が、無音のまま爆発的に駆動した。
まるで飢えたキタキツネが雪原の獲物に飛びかかるかのような驚異的な跳躍で、巌は闇の奥へと突進し、その不滅の怪力で一瞬にしてネズミを生捕りにした。
ジィ、ジィと狂ったように暴れるネズミの長い尻尾を掴み、巌は焼き潰れた喉の奥から、カチカチの軍人としての歪んだ怒りをボソボソと絞り出した。
「……友軍の肉を食べるなど……大日本帝国陸軍の軍記上、断じて許せん……!」
直後、あろうことか巌は、その生のままのネズミをバリバリと頭から貪り食ってしまった。
一切の痛みも忌避感も呪いで麻痺した肉体。口の周りの包帯をドス黒い血で染めながら、骨ごと噛み砕き、皮を裂き、戦友の仇を討つかのように胃袋へと収めていく。生々しい獣の血肉が、干からびていた巌の身体にどす黒い活力を与えていく。
「……ふぅ……。少しは腹の足しにはなったな。……一休みするか……」
口の周りを不器用になぞり、巌は何事もなかったかのように銃の横へと腰を下ろした。
◇
翌朝。フォン半島の熱帯雨林には、朝靄と共に再び凄まじい熱気が立ち込め始めていた。
巌と遠藤看護婦の二人には、現在地を知るためのコンパス(羅針盤)すら残されていなかった。完全に方向を見失ったまま、ただ現役兵の勘と意地だけで、道なき泥濘と鬱蒼としたシダの葉をかき分けながら歩き出す。
(……ん?)
不意に、巌の耳がジャングルの奥からの微かな振動を捉えた。
ザクッ……、カツン……。
熱帯の湿った空気を震わせて聞こえてきたのは、聞き慣れた金属の音――陸軍の兵隊が泥壕を掘る、円匙(えんし:ショベル)の音だった。
「伍長殿……?」
遠藤看護婦が息を呑む中、巌が静かにシダの葉をかき分けると、その先のわずかに開けた泥濘の中で、ガリガリに痩せこけた陸軍の兵隊が数人、必死になってタコツボや泥の壕を掘り進めている姿が、二人の目を見張る視界へと鮮烈に飛び込んできた。
(第五話へ続く)




