第二十九話:激震
玄冥郷を囲うように連なる山脈が、朝日の光を浴びて、黒い山肌を見せ始めていた。
水を司るこの地は、中央に池があり、まだ氷が張られている。それでも厳しい冬の寒さを超えたことを、セイランは感じていた。
少しずつ過去を受け止めようとはしながらも、何度も何度もその夢を見た。うなされては起き、セイランは毎日のように枕を濡らしていたが、シェンウーに稽古をつけてもらい、没頭していると気が紛れる。
「遠慮せずに、かかってくるがいい」
「はい!」
セイランはシェンウーと模擬戦闘をしていると、自分を抑えていたことを実感していた。
稽古が始まったばかりの頃はためらいがあったが、シェンウーはさすがに四神の最上位なだけあって、手加減が通じる相手ではない。
気を込めた拳をぶつけても、まるであらゆる色が黒に塗りつぶされるかのように、気は霧散していくばかりで、当たってもいなされるだけだった。
それでも、セイランにとっては、全力でぶつかることができることが、清々しく感じられた。
汗をかいても、目覚めたときにかいている汗とは、まったく違う。擦り傷も打撲も、心の痛みと比べればさほどではなく、癒やせるだけまだいい。息を荒らげながらも、セイランは自然と笑みがこぼれていた。
「……セイラン、そろそろ試してみるがよい」
「試す、ですか?」
シェンウーは指をさすように、顎を動かした。
その先には、ユウロンがいる。ユウロンは稽古なんて嫌だと言ってやろうとはしなかったが、なぜか稽古をよく見に来ていた。
あくびをしたり、横になって寝ていたりして、どういうつもりなのかはわからないが、不思議とセイランは嫌ではなかった。
「三つ目の、解封をだ」
「……!」
シェンウーがそう言うと、うつらうつらと眠そうにしていたユウロンが、目をぱちくりさせながら這ってくる。這っているとは思えない速度で、セイランの足元にやってきた。
「本当か!? 早くやってくれ!」
ユウロンは子供のように、目を輝かせている。
ランフーから腕輪をもらったときは、こんな顔をしていたのかもしれないと、セイランは笑いが込み上げそうになった。
しかし、ドタバタと音を立てながら、青ざめた顔で稽古場に入ってきたコアフを見て、その笑いは引っ込んだ。
「シェンウーの親父! と、とんでもないことになったぞ……!」
セイランを一瞬見たあと、コアフは屈んでシェンウーに耳打ちした。
普段は、ほとんど表情が変わらないシェンウーが、動揺の色を隠せないような表情をしていて、それだけでレイの言葉が頭によぎってくる。
「──もし、そのおじいさんが誰かのせいで亡くなったら、セイランさんはどうする?」
忘れかけていた嫌な予感に、セイランは頭を振った。
騒がしくなったせいか、起きてきたらしいバツが入ってきて、目をこすっている。
「お、おい。何事だよ。せっかく解封してもらうところだったのによ」
ユウロンも、怪訝な顔をしている。続けて黒色の式神が飛んできて、シェンウーは大きく目を開きながら、込められた伝言を読み取っているようだ。
「朱雀からの伝言だ。セイラン、気を確かに持つように」
もはや頷くというよりは、セイランは震えのあまり頭が動いた。シェンウーは言った。
「──ランフーが討たれた」
「……は?」
言葉が頭に入ってこなかったセイランの代わりのように、ユウロンは口をポカンと開けて、困惑の声を出した。
「いやいやいや、そんなわけないだろ。ジジイなら、つながりがわかるんだろ? 本当にそうなってんのか?」
シェンウーはセイランを見つめてくる。
セイランは立っていられなくなり、何も知りたくなくて身をよじった。
「わからん。こんなことは初めてだ。しかし、現世からは離れかけておる。討たれたというのも、あながち嘘ではないのだろう」
「そんな馬鹿な……」
「青龍を名乗るものから、各地に檄文が届いておるらしい。かいつまんで言うと、妖怪の決起と、人への降伏を促す内容だ」
ユウロンが言っていた、悪夢のような推測が当たってしまっている。
いくら受け止める訓練をしてきたとはいっても、セイランは正気が保てず過呼吸になり、頭の中は真っ白だった。
両親がいないとわかった今、ランフーは唯一の肉親だったのだ。
血のつながりはなかったとしても、セイランにとっては祖父であり、親だった。
「セイランよ。聞きたくはないだろうが、檄文の最後に、誰かに向けた言葉がある。特定の一人にだ」
「あの女が、小娘に何か言ってるってことなのか?」
「おそらくな。知りたくなければ、今はやめておくか?」
ユウロンとシェンウーのやり取りを聞きながら、なんとか飲み込もうとしていたが、頭が理解を拒む。
涙すらも、流れてこない。それでも受け止めようとして、セイランは声を出した。
「……いえ、見ます」
セイランの声はかすれるような、自分でも痛々しく聞こえる声だった。
そんなことも気にせず、へたりこんだまま手を伸ばす。そして、シェンウーから式神を受け取った。
『優しさと激しさを持つ、あなたへ。人妖の歴史は血の歴史、私の手も血にまみれ、口火は切られました。あのとき言ったように、覚悟はできています。私を止められる者がいるとすれば、復讐に燃えるあなただけなのですから』
最後はそう、締めくくられていた。
やはりレイ、いやレイロンがやったのだ。復讐の機会を与えるために、見逃したのだろうか。
セイランは、鬼が乗り移ったような形相になり、式神をぐしゃりと握った。
人の命を、心を弄ぶあの女に、火柱のような炎が舞い上がる。
「──殺す」
セイランはレイロンと同じ言葉を、考えるよりも先に口にしていた。
歯を食いしばって、必ず殺すと誓い、セイランは今すぐにでも向かおうとした。
「セイランよ、待て!これから行く気なのか?今のお前では、勝てる相手ではない。復讐どころか、たどり着く前に死んでしまうぞ!」
シェンウーに止められ、セイランは泣き崩れた。
頭ではわかっていても、どうしようもない。ただその焼け焦げるような思いだけが、心に満ちていた。
「……みんな、わたしから離れて」
そう呟くように言ったのは、バツだった。
何のことかわからず、戸惑いの色がその場に広がっていく。しかし、真剣な表情をしていて、従うようにセイランたちも離れた。
「セイランが望むのなら、連れて行ってあげたい」
バツの首元にある封輪に、ひびが入って閃光が走る。
いくら緩めたとはいえ、本来は解けるはずのない封印が解かれたのだ。
そこに現れたのは、コアフに並ぶほどの大きさになった、狗か獅子のような姿をした妖怪だった。




