第二十三話:連鎖
しばらくの沈黙の後、転がっていた木に腰を落としたムトウは、口を開いた。白い息が広がる。
「おにぎりを一つ、盗られただけでした。娘と息子がそれぞれつくってくれた、二つのおにぎりの片方だけ。おそらく娘がつくってくれた方です。それでも突然現れたときは、襲われるのかと思いました。しかし飢えているのかおにぎりを見つめていて、手を伸ばしてきたその子を、反射的に斬りました」
「……その子は、どんな子でしたか?」
「一瞬の出来事で、はっきりとは覚えていませんが、うっすらと赤い肌で、犬のような耳をしていました」
やはり、ティエンのお姉さんだろう。琥珀を握りしめる手に力が入る。セイランの呼吸は浅くなり、バツが背中を撫でてくれた。
「そのときは驚きや恐れで、いっぱいでした。殺されるかもしれない。そうなれば、子供たちはどうなるのかと。命を奪いに来たわけではなさそうだと感じても、おにぎりを盗られるのかと思うと、体が先に動いて斬っていました」
「その子が死んでたら、どうするんだ? お前が斬ったせいで」
ユウロンは、ムトウを見ずに聞いた。ムトウは肩をすぼめて、かすれる声で答えた。
「申し訳ないと、謝ることしかできません。人に近い姿の子でしたから、話せばわかる妖怪だったのかもしれない。仕事の旅が終わって村に帰る道中でも、娘と重ねて思い出しては、某は悪くないと思おうとしました」
そこで声を震わせながら涙を流したムトウに、セイランは怒るべきなのか、慰めるべきなのか、わからなくなっていた。それぞれに事情があり、咄嗟に起きた出来事で、考える暇もない。お互いの事情などわかるはずもなく、自分や大切な人を優先することを選ぶものだ。
レイの言う通り、誰かのささやかな幸せが、他の誰かにとっては命を左右するような、欲しくてやまないことなのかもしれない。
「家に帰ると、子供たちはいませんでした。干ばつがあって、米が収穫ができない村が多かったらしく、どうやら飢えた他の村の人たちに襲われて、村の備蓄を奪われたようです。そこかしこに転がる友人の死体には鳥がたかり、蛆が湧いていました」
「そんな……子供たちはどうなったの?」
バツは悲しげに、ムトウを見つめて尋ねた。周囲の空気が暖かくなり、息の詰まるような空気を、バツが和らげようとしてくれたのだろう。
「君も妖怪なんですね。村には子供たちの姿はなくて、探しても探しても見つけられませんでした。もうこの世にはいないのかもしれないし、誰かに攫われて……うぅ……」
「だからこんなところに? 探してるの?」
「それもありましたが、自暴自棄になっていたのかもしれません。あの子を斬った報いなのかと、子供たちとその子を追い求めているつもりが、ずっと死に場所を探していたような気もします」
ムトウは鼻をすすり、目をこすった。誰もが自分のために動く。生きていくためなら、どす黒い感情に身を委ねることもあるだろう。考えることもなく流される者もいれば、止めようとしても止められない者もいる。
セイランも負の連鎖だとわかっているのに、制御できない自分がいて、こんなに苦しんでいる人を責められないと、地面にしみたゴウエツの黒い血を見ていた。
人も妖怪も血みどろの歴史だ。流れる血は赤かったとしても、時間が経てば黒ずんでいく。
まるで人のどす黒さを示しているようで、人を食らうゴウエツと何も変わらないどころか、考えて意思の疎通ができる者同士なのに、血で血を洗う争いを繰り広げている。
セイランには、ゴウエツより醜悪に思えて、血が出そうなほど唇を噛んだ。
まだ夜でもないのに暗くなってきて、セイランが空を見上げると、広がっていた雲が黒雲になっていた。遠くで雷が落ちて、遅れて轟くような音が響く。
そして、また薄い霧が漂ってくると、セイランは立ち上がった。獣のような臭いはしないが、死体が腐ったような臭いとともに、不気味な子供らしき声が聞こえてくる。
急斜面の山から現れたのは、三歳ほどの人の子供のようだった。
しかし、体は赤黒く、目が真っ赤だ。耳も長く、人ではないことだけはわかった。
「あれは魑魅魍魎の、魍魎の方だな。ガキみたいな面して、死体の肝を食うらしい。見苦しい奴らだ」
「某も追い詰められて斬ったことがありますが、気味は悪くても子供のような姿です。斬ると何かを失うような、そんな気がしました。お気をつけください」
ユウロンは嫌悪を隠そうともしないが、ムトウは何か思うところがあったようで、子供を斬り、自分の子供まで行方がわからなくなったムトウには、手にかけることへのためらいがあったに違いない。
魑魅魍魎がどうして現れるのか、何を言わんとしているのか、手がかりが欲しい。セイランは子供をあやすように、話しかけた。
「どうしたの?何か思ってることがあるなら、教えてね」
「あぅ~」
魍魎はうわごとのような声を上げたが、その血走った目からは、セイランは読み取ることができなかった。封印するにしても、弱らせなければいけない。
しかし、襲ってくる気配もなく、まるで飢えた子供のようで、セイランは拳に力が入らなかった。逡巡し、振り返ったセイランだったが、痺れを切らしたようにユウロンがムトウの刀をひったくり、鞘から抜いていた。
「俺がやる、どけ」
「ちょっと待って、ユウロンも危ないよ」
「俺の封印を解く気は、ないんだろう?これぐらいの雑魚なら、刺し殺せば死ぬだろ」
ユウロンは指さすように、切っ先を魍魎に向けた。
その刃の煌めきは美しいが、命を奪うためのものだ。相反するものを抱えているのは、人も刀も同じなのだろう。
セイランは、ユウロンの腕輪に触れた。
「──第一封印、解!」
黒い閃光が走ると、ユウロンは目を丸くしていた。
「どういうつもりだ?小娘」
「私もよくわからない。でもせめて水を、その子たちに……」
「やれってか? こんな気色悪いガキに?」
ユウロンは魍魎を見下している。バツはユウロンの前に、降りてきた。ユウロンを見上げながら、バツは言った。
「わたしが言うのもおかしいかもしれないけど、干ばつで穀物が収穫できずに飢えて亡くなったり、喉の渇きで苦しみながら死んでいったりする人がいるのは、知ってたんだ。だから嫌われても仕方ないって思って、寂しくても誰もいないところに隠れてた」
「そりゃ厄介者でしかないからな。お前みたいなガキ」
「……そうだよね。でもユウロンの水は、すごいんだよ。それがないと、誰も生きていけない。魍魎だって、求めてさまよっているのかもしれないよ」
精一杯、背伸びをしてバツは訴えかけている。ユウロンは右手を見つめ、かすかに腕を震わせていた。
「ユウロンさん、某は後悔してきました。子供たちがつくってくれたおにぎりを、渡さなかったことを。それどころか、斬ってしまったんです」
両膝をつき、ムトウは顔を手で覆った。長旅で伸びた髭をつたい、地面を濡らしている。
セイランも、自分だけ何も言わないのは悔いが残ると思い、ユウロンと目をしっかりと合わせた。
「なんだか癪で言えなかったけど、ユウロンが水を水筒に入れてくれたとき、本当は嬉しかった」
「…………」
「龍の力は、人の身には余る。他人だけじゃなくて、自分自身すら滅ぼしかねない、諸刃の刃。でもユウロンの力は、誰かを助けることができる。干ばつも水害すらも、防げるかもしれないんだから」
ユウロンは視線を外し、またどこか遠くを見ているようだった。
他人のために力をつかう気がないユウロンが、嫌悪している魍魎に、水を与えるとは思えない。それでもセイランは、頼まずにはいられなかった。
「同じようなこと言いやがって……」
何とか聞き取れるくらいの小さな声で、ユウロンは呟いた。刀を地面に勢いよく突き刺し「水筒……」と、頭をかきむしりながら言った。
「水筒?」
「だ・か・ら、水筒だよ!さっさと出せ」
「わ、わかった」
セイランは水筒を取り出して、ユウロンの元に戻った。バツにも渡すと、はにかんでいる。
「あんなのに、水をやる気はねえ。でも水筒には入れてやるよ。早く旅を終わらせたいからな」
右腕から水がうねり、水筒に注がれていく。ユウロンはそっぽを向いているが、心から嫌なわけではなさそうだった。
「ありがとう、ユウロン……」
「ありがと! お兄ちゃん!」
「お兄ちゃんはやめろ! お前らのためでも、くせぇ気味の悪いガキのためでもねぇ。俺が早く終わらせたいから、やっただけだ」
明らかに照れ隠しに見えたが、セイランは何も言わずに魍魎に近づいた。小さな器を作って水を注いで渡すと、その子は初めて笑顔にも見える表情になり、水を飲んだ。
きゃっきゃと声を上げて、赤黒い肌がいくらか薄くなったようにも見える。そして魍魎は目を薄めると、姿が朧げになっていき、霞のように消えていく。
セイランが手を伸ばしても、誰もいなかった。
「なんと、某は初めて見ました。このようなことがあるとは……」
「封印したわけじゃないのに、消えていったね? 未練がなくなったのかな?」
ムトウは何度も瞬きをして、目を凝らしている。バツの言う通り、魍魎は何かから解放されたのかもしれない。
あらゆる苦しみが、この世にはあふれている。
戦争に飢餓、人妖の心の闇や苦痛を一身に背負い、あんな姿になったのではないかとセイランには思えて、目を伏せそうになった。
それでも、いつの間にか霧は晴れ、黒雲の間から一筋の光が射している。
きっかけを掴んだことで、セイランは一縷の望みを見出していた。




