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8/12

*漆*

 桃の甘い香りが庭に漂う。いち早くそれを見つけた鳥と競うように僕もそれをもがせてもらい、冷たい井戸水で冷やすことで増した甘さに手をべとべとにした。内記さんからお墨付きをもらえるくらい浴衣の着付けもうまくなり、月の満ち欠けもそのうち幾度目かを終えた。


 僕が足を踏み入れて掻き回した九度山の真田の屋敷は、しかし穏やかそのもので、こじれるかと思って不安だった大助との仲も決定的なところまでは進まずに済んだ。

 その大助と僕とは夏の間、水練と称して川へ通い、毎日のように泳いだ。初めこそ流れが怖かった僕も段々と流れへの抗い方、沿い方を身につけ、冷たい水に身を浸していると余計な考えが生まれなくて楽だったのもあり、僕はその時間を存分に楽しんだ。

 夜になれば大助が部屋へやってきて、部屋の灯りを消してひんやりとする廊下にふたりして座り込み、内記さんに叱られる寸前の時間まで様々な話をした。徳川を始め、戦国や歴史に関わる事柄は避け、それ以外で僕の頭に入っていることや考えを話すだけだが、大助の反応はいつも綺麗にまっすぐで、それは僕にとってもすこぶる面白い時間となった。

 そんな僕たちに幸村様は、真田の者たちのことや兵法について教えてくれた。

 攻め弾正(だんじょう)、鬼弾正との異名を持つ幸村様の祖父・幸隆様から始まった真田の歴史。その息子であり、幸隆様の死後に家督を継いでいた長兄と、そして次兄までもが長篠の戦いで共に命を落としたことで本家を継ぐことになった三男・昌幸様。犬伏の別れによって袂を分かった兄・信之様と、父と共に西軍についた弟・幸村様。

 幸隆様は敵であった武田家に臣従。武田が海を求めて信濃を北上する戦の数々において、その貢献の大きさは他の追随を許さない。

 昌幸様の長兄と次兄とは共に武田二十四将に数えられ、長兄・信綱様は「青江の大太刀」を手に勇猛果敢に戦う豪傑として名高く、次兄・昌輝様は信玄に「我が両目」と呼ばれるほどの活躍を見せた。

 昌幸様は幼少時を武田家の人質として過ごし、信玄にその才を見込まれて武田の名門・武藤家を継ぐために名を与えられたが、ふたりの兄を長篠の戦いで失った際に復姓して真田本家の当主となった。信玄の後継者・勝頼を支え、勝頼の死によって武田家滅亡ののちは、上杉、徳川、北条の脅威に曝されながらも時流を読んで自らの拠りどころを巧みに替え、「表裏比興の者」と呼ばれながら真田を守り抜いた智謀家。

 信之様は、姻戚関係から関ヶ原で東軍につき、家康の勝利後は義父である本多忠勝らに働きかけて父と弟の助命嘆願に奔走。

 「どうあってもふたりの首を刎ねると申されるならば、それを助けよと言い張るこの信之の首をまず刎ねられよ」

 そう家康に啖呵を切った。自らの命を賭けて父と弟の命を救い、戦にも(まつりごと)にも優れた手腕を発揮した真田の嫡男は、関ヶ原以前に父が治めていた上田の地を治め、真田を守り抜く。

 真田の極意とは、寡兵で大軍を打ち破ること。それはこの先、大坂の陣においての幸村様の戦い方にもつながって来る。



 「のう、鷹弥」

 幸村様が秋風に吹かれるようになった桃の木を見上げて呟く。剣術の真似ごとをさせてもらっていた僕は木刀を収め、幸村様に寄った。桃の木はすでに実の時を終え、冬に備えようとしていた。

 「もしも私が父上の子でなく、兄上の弟でなかったとしたなら、私は私ではなかったろうか」

 「幸村、様?」

 「前にそなたが申したであろう?関ヶ原ののち、父上と私とが兄上の御尽力のお陰で生きることを許された故に大助がおるのだと」

 「……はい」

 大助は、真田は徳川を追いやったのに本戦での西軍の敗北という結果のみにおいて徳川の仕置を受けることになった自分の父と祖父、そして自分自身を見るにつけ、何かが足りぬと思えて仕方がないと話していた。この九度山を出て、いつの日か真田の六文銭旗を白日の下へ己が翻すのだと考えているであろう大助に僕は、だけどそうしてふたりが徳川によって生きることを許されたからこそ大助が今生きているのだと、そう言った。幸村様はそれを思い出したようだ。

 「私は真田の男子でなくともよかったのであろうか」

 僕は耳を疑った。

 「どうしてそんなこと」

 真田幸村は真田幸村でしかないのに。

 「私はもしやこの地で、何を為せぬままに命を終えるのではないかとこの頃よう思うのじゃ。我が父はの、在りし日に病の床でよく、あと3年の命があればと申しておられた」

 「3年?」

 「うむ。近いうちに大坂で大きな戦が起きる、それに参陣して真田の恥辱を雪ぎたい、と」

 大坂の陣。冬と夏の2回の戦を経て、織豊時代が名実ともに終焉する、その戦い。それを昌幸様は知っていたと?表裏比興の者と呼ばれた昌幸様がまたも時勢を読んだということか?僕はぞくっとした。

 「父上はこうも申された。大坂で戦が起きたならば必ず大坂の城は落ちる、と」

 それは小田原城しかり。堅固な城ほど城を頼みにしすぎて諸刃の剣となり得るのは歴史が証明している。

 「やはり父上は偉大であったと改めて思うのよ」

 僕は恐ろしくさえなっていた。この時から400年の間のことを教科書的には知っている僕と違い、この九度山に押し込められ、再び戦場を駆けることを許されることなく病に倒れた老将は、しかし今から豊臣がどういう道を辿るのかを知っていた。それなら、もしも、大坂入城を促す秀頼からの使者がこの地を訪れた時に昌幸様がまだ生きていたとしたら、真田はどういう決断をしたのだろう。真田にとって徳川は宿敵だけれども、もしも決定権を持つ者が幸村様ではなく昌幸様だったとしたなら、落ちると読んだ大坂にはつかなかったこともあり得たのだろうか。徳川方の自分の弟・信伊(のぶただ)が誘い、嫡男・信之のいる徳川方につくこともあり得たのだろうか。

 「それに対してこの幸村は、この六文銭が飾りになっておる気がしてならぬ」

 幸村様は着物の襟の中から六文銭を取り出し、握り締める。

 「父より幼き頃にいただいたこれは、ここへ参ってからも肌身離さず身に着けておった。真田の矜持を失わぬよう、牙を抜かれた虎にならぬよう、戒めとしてな。だがこれは、もはや私には不要なものなのかもしれぬと思うことがな、あるのじゃ」

 歳を取ったということかの、と幸村様は寂しそうに続けた。

 僕はたまらない気持になった。これはもしかして、僕がここにいるからなのかと思うと怖くもあった。幸村様は今までこんなふうに誰かに弱音を吐くことなんてなかったんじゃないだろうか。やはり真田を継ぐ者としての矜持を失うわけにはいかなかったから、必死で自分を律してたんじゃないだろうか。それが僕という、真田にも他家にも時代にも何にも関係のない存在が目の前に現れたために、ふと、凭れかかりたくなったのかもしれない。

 「幸村様」

 僕の声に幸村様は、桃の木から視線をこちらに移す。

 「僕は、幸村様はやはり幸村様以外の誰でもないと思います。それに、幸村様は日本一の兵になるべき人ですから」

 「日本一の?それはまたえらく褒めそやされたものじゃのう!」

 幸村様は声を上げて笑った。それは思ったより長く続き、最後はため息にも似て終わった。

 秋風に枝を揺らす桃の木を見上げる幸村様の横顔を眺めながら僕は手にしたままだった木刀を強く握った。



 それから一気に秋へと季節が進み、日本史の授業を受けていたあの教室へ戻りたいとは思いながらもどうすることも出来ず、僕が真田の屋敷で幸村様の人となりを感じながら時を過ごしていた、そんなある日。


 幸村様と僕は、もう冷たくなった夜風の吹き抜ける庭で虫の声が響くのを聞いていた。そこへ内記さんが駆けて来た途端、何かを感じ取った幸村様は僕に、部屋へ戻っておれ、と告げる。僕は言われた通りに自分に与えられた部屋へ戻り、障子を閉めた。

 けれど胸騒ぎがして仕方がなく、何か感じられないものだろうかと神経を外へ向けていると、内記さんが障子の向こうに現れてドキッとする。内記さんは、幸村様からのお言いつけじゃ、と声を潜め、告げた。

 『良いと申すまで決して部屋を出るな』

 鷹弥、よいな?と念を押されて頷くしかなかった僕は、外の様子を探るのを止め、部屋の奥へ座った。

 屋敷を騒がしくしているのは多くの人数ではないと思う。でも心がざわついて仕方がない。それでも僕は、心配することなど何もない、と自分に言い聞かせ、畳に大の字に転がった。この天井の模様も随分と見慣れたと思った。



 翌朝、僕は幸村様に呼ばれた。人払いがされ、ふたりきりの静かな部屋。何か大事な話があるのだと身構える僕に幸村様は告げた。

 「大坂から使者が参った」

 そのひとことで僕はすべてを察す。大坂、つまり豊臣秀頼からの大坂城への入城の誘いだ。そうか、家康は方広寺の鐘に刻まれた文字に難癖をつけるというあれをしたのか。国家安康、君臣豊楽。

 幸村様に大坂から使者が来たということは、家康は大坂追討を宣言したということであり、大坂の陣の火ぶたはすでに切って落とされているということ。

 「そなたは知っておろうからそれについて私は今ここでは語らぬが、そなた、いかがする」

 幸村様たちがここ九度山を抜け出して大坂へ向かってしまえば、ここにいる真田の者たちはひとり残らずここから姿を消す。けれど僕には行くところがない。

 「誰ぞにそなたのことを頼むことも出来る。じゃが、そなたの気持ちを聞いてからと思うてな」

 「……僕は」

 「申してみよ」

 「……僕は」

 許されるだろうか、それは。口にすること、それ自体、許されることだろうか。でも言わなければ。僕は意を決して口を開いた。

 「幸村様と大坂へ行きたい」

 想像以上の幸村様の驚愕ぶりに心が折れそうになりながらも、僕は必死で幸村様を見据えた。幸村様も目を逸らすことなくじっと僕を見据える。

 「それはまことか?まことに私と共に大坂へと申すのか?」

 「はい」

 「ここへ残ると申すならば、私が懇意にしておる寺の者にでも頼めば悪いようにはされぬと思うが」

 「いいえ。僕は幸村様と離れたくないんです」

 もう、幸村様の傍以外に自分の居場所はないと僕は思っていた。

 「足手まといにならないように必死でついて行きます。僕のせいで幸村様が危なくなったら見捨ててもらって構いません。だけど僕は幸村様と一緒に行きたいんです!」

 「そなたは戦を知らぬ。戦の恐ろしさを知らぬ。そなたが耐えられるとは到底思えぬ」

 「でも!置いて行かれたくない……」

 幸村様をここで見送ることは僕には出来ない。僕は大坂へと去る幸村様を見送るために400年の時を駆けて来たわけじゃないはずなんだ!

 「一度踏み出してしまえば決して戻れぬぞ」

 「……はい」

 「見捨てることになるやもしれぬぞ」

 「……はい」

 同じ事柄でも自分から言うのと相手から言われるのとは違う。戻れない、見捨てる、そう言われて胸が苦しいのも事実。しかしここへ残されたところで意味はない。僕は幸村様が何かを為すための礎となるためにここへやって来た、そう思うから。

 「ならば……そう致せ」

 幸村様は僕に、一緒に大坂へ向かう許しをくれた。でもすぐに、ただ、と続ける。

 「端から死ぬ気でおるならここへ残れ。生きる気でおらねば連れては行けぬ。ここで、そなたのおるべき場に戻れる日を静かに待て。嘗てはこの幸村も、死こそ誉れと思うておったが今はそうではない。生きてこそじゃ。生きてこそ何かを為せるのじゃ。命を粗末にする者は連れて行かぬ。何かを為すために命を賭ける者のみ連れて参る」

 「もちろんです!僕は幸村様と一緒に生きてみせます!」

 幸村様はきっと僕を置いて行きたい。役に立つ立たないとかではなく。

 「連れて行って下さい」

 僕は頭を下げた。幸村様はもう何も言わなかった。

 


 部屋へ戻って今しがたのことを思い出していた僕の耳に、大助様!と抑えてはいるが鋭い声が聞こえて来た。そしてそれに被さるように廊下を進んでくる足音。それがここへ向かっているのは察しが付いた。唐突に障子が開かれ、けたたましい音を立ててそれは跳ね返る。

 「鷹弥殿!」

 まだ腰を下ろさないままでいた僕に3歩で正面に立った大助は、ガッと僕の襟首を掴み、近すぎる距離で睨んでくる。内記さんがまたも大助様!とたしなめるが、大助は短い呼吸に肩を上下させながら僕を睨み続ける。

 「何故……っ!」

 浮いた踵は少しだけれどやはり襟を絞められているのは楽ではなくて、僕は大助の手を引きはがそうとその手を掴む。互いに力が込められた手。僕の爪が大助の甲に食い込む。

 「ほら」

 ふと大助が笑う。しかしそれはいつものそれではない。

 「な、に」

 頸動脈の締め付けがいい加減苦しいと思いながら問い返す。

 「私の手を振り解くことも出来ぬ。……そのように非力な者が戦へ赴くなど笑止千万!鷹弥殿はここへ残られるがよい!大坂へは参らぬと父上に申されよ!行かぬと!残ると!父上に申されよ!」

 「な……ん、で」

 頭がぼうっとして焦点が合わない。揺らめき始めた大助に僕はけれどまた問う。

 「……死にまする」

 大助の答えは、とても苦しそうでとても小さな声だった。それが聞こえた時、大助様!という内記さんの声がまた聞こえて、同時に僕はドタッと畳に落ちた……と思ったけれど体に衝撃は来ない。襟元が急に楽になったことで吐き気を催した僕は、落ち着いてのち、自分が内記さんの腕に抱き留められていることに気付く。

 大事ないか、と内記さんが小さく問うので僕はこくりと頷き、自力で座り直した。大助は僕を見下ろしたままでいたが、大助様、と内記さんに穏やかな声で呼ばれるとガクンとその場に崩れ落ちた。

 「何故に……何故に、鷹弥殿が参らねば……ならぬのですか……!これは真田の戦……鷹弥殿……嫌にございます……!大助は、鷹弥殿を……」

 大助は最後まで言わなかったけれど、僕にはそれが聞こえた気がした。死なせたくないのです、というひとことが。


 内記さんには下がってもらって、僕は大助と向き合って座った。大助はいつものように正座をし、膝の上で拳を握りしめている。うつむいた表情はしかし相変わらず固いが、先ほどのように激しくはない。

 僕を大坂へ連れて行きたくない。ここへ残して行きたい。それは僕が非力だとか真田の人間でないだとかそういうことではなく、ただ、僕を死なせたくないと願うため。相手を愚弄するような口ぶりになってしまうのは相手を思うが故。

 「大助」

 「……はい」

 うつむいたままの大助が小さく答える。

 「幸村様も、僕を置いて行きたそうだったよ」

 「それは……そうでしょう」

 「幸村様は僕に言ったんだ。死ぬつもりなら連れて行かぬ、生きる気でないなら連れては行けぬ、って」

 聞いて大助がゆっくりと顔を上げた。

 「だから僕は幸村様と約束した。生きてみせると」

 戦がどんなものか知るはずもない。怖くないはずもない。でも僕は幸村様と共に行きたい。それで幸村様が生きよと命じるなら生きるまで。しつこくしつこく、生きるまで。僕は確かに非力だ。力も技も策も持たない。死にたいなんて思ってるわけじゃない。死んでもいいなんて思ってるわけじゃない。死んでも仕方ないと思ってるわけじゃない。僕はあの明るい教室へいつか必ず帰るのだと思っている。だけど、だからと言ってここで幸村様を見送るのはどうしても嫌なのだ。幸村様は僕を見捨てなかった。突然現れた正体不明の子どもに自ら着物を着せてくれ、一緒に食事を取ってくれ、川へ飛び込んで助けてくれた。勝手に思い詰めて屋敷を飛び出した僕を探し、肩に羽織をかけてくれ、裸足の僕を背負い、思いを語ってくれた。そんな人を僕は見送れない。散ることが分かっている人を、ひとり安楽に浸りながら思うなんてことは今、僕には出来ないんだ。

 「だから大助も、生きて。何かを為すために生きて」


 『嘗てはこの幸村も、死こそ誉れと思うておったが今はそうではない。生きてこそじゃ。生きてこそ何かを為せるのじゃ』


 幸村様が抱く気持ちは、これが初陣となる若い大助には理解出来ないのかもしれない。だけどその欠片だけでも伝われば大助を救えるかもしれないと思って僕は、生きて、と大助に繰り返した。大助は頷いてはくれなかったけれど、種は、蒔いた。

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