*陸*
「鷹弥殿」
控えめな声がして障子に目をやると、廊下の影がゆらりと映る。それは大助のもの。
「入らせていただいても?」
「……どうぞ」
そっと開いた障子から大助がすっと入ってきて、かたんと小さな音を立ててそれを閉める。こちらに向き直った大助は僕を見て笑みを浮かべ、よかった、と呟いた。
「鷹弥殿がお戻り下さって大助は嬉しゅうございます。おなかがすいておられるでしょう?今、内記が夕餉を届けてくれますので、ご一緒させていただこうと思いまして」
「あ……」
そうか。大助も食事を取らずに僕を探してくれてたんだ。
「もう寒くはございませぬか?」
「……大丈夫」
僕はまた肩にかけてあった羽織を指先で掴んだ。
「あ、でも、これ……」
急に言い淀んだ僕の気持ちを分かってくれた大助は首を横に振る。
「1枚2枚お貸ししたとて大助は困りませぬ」
それからすぐ内記さんが夕餉の膳を届けてくれて、僕と大助とは向かい合って箸を取った。
「お口に合いまするか?」
「優しい味がする。おいしい」
「それはようございました」
今も本当にほっとしている。ほっとしたら涙が零れそうになるんだけれどそれはぐっとこらえて、僕は箸を進める。その向かいで大助は、箸を持った手を膝に下ろして語り始める。
「私はここで生まれ育ちました故、ここしか存じず、比べるものを持ちませぬ。父より聞かされた真田の地も存じませぬ。……鷹弥殿もご存知のようですが、徳川によってここへ押し込められておいでの父上は、ですが気概をお持ちなのでしょうが、私には、穏やかに時を過ごせることが何よりだと申します。親兄弟と共に暮らし、贅沢は出来ずとも飢えることなく、空を見上げ星を数えて眠りにつけることが私の幸せなのだと」
群雄割拠の時代においては、攻めねば攻められるのが常であり、奪わねば奪われるのが日常で、だからこそ何千何万という人たちがひとりの大将の元で命を賭け、戦場を駆け、命を散らして行く。命を惜しまず、華々しく戦に散ることが何よりの武人の誉れであると。
それでも我が子には平安を願う。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康……天下を右へ左へと揺るがした彼らはこの国すべてを己が手中に収めるために大軍を率いて戦ってきたわけだが、その彼らもつまりは、平安を求めたのに違いなかった。そのためには己が頂上へ登りつめればよいのだと信じて。倒れた命、流れた血、それらもすべてはこの先にある長きに渡る平安のための礎なのだと、そう信じて突き進んだのだろう。
けれどそれは多くの、あまりに多くの、数えきれないほど多くの哀しみを生み出したのもまた真実。
「鷹弥殿はいかが思われますか?父上の仰る通り、それが私の幸せなのだと思われますか?」
「思う」
僕は即答した。争いは400年ののちも繰り返されている。地球上から争いが消えることなど永久にないのではないかと思うほどに、毎日どこかの何かがニュースになる。ひとりひとりはきっと争いを求めてはいない。親兄弟と穏やかに飢えることなく星を数えながら眠りにつける、そういう日々を求めている。手には銃でなく花を持ち、胸には憎悪ではなく健やかに眠る我が子を抱き、晴れを喜び雨を喜び、貶められることなく微笑んで、明日を待つことを楽しみとできる、そんな毎日をきっと望んでいる。なのになぜだか争いは繰り返され、哀しみが消えることはない。
だから幸村様が大助にそう願うのは、命の儚さと尊さを知っているからこそなんだと思う。
僕の気持ちを黙って聞いていた大助は少し考え込んだ。私は……、と言いかけてためらい、苦しそうな表情をする。
「何かが足りぬと思われて仕方がないのです」
「……足りない?」
「はい。父が長きに渡ってここにおられるのは徳川によってではありますが、父と祖父とは、徳川には勝ったのです!上田の城で父たちは7日の間、徳川の軍勢を苦しめ、終には追いやったのです!それなのに、徳川に負けたとは納得がいかぬのです!我が真田は負けてはいないのに、なのに……!」
大助は箸を折ってしまいそうなほどそれを握る手に力を込めている。
大助の言う通り、真田は徳川勢を追いやった。関ヶ原の合戦場へ向かう途中、真田の居城・上田城を落として軍資金と兵糧を手に入れようとした徳川秀忠。しかし秀忠は上田城を落とせぬままに撤退を余儀なくされ、関ヶ原の決戦に徳川本隊3万8000を遅参させるという大失態を起こす。つまり小早川秀秋の裏切りによっての勝敗だけで真田は仕置を受ける羽目になり、幸村様たちがここ九度山へ蟄居させられて十年余り。
勝ったのに、という大助の気持ちも分からなくもない。けれどそれはこのあと400年の間に繰り返され続ける争いと根は同じだと思った。
「でも幸村様たちは、首をはねられても仕方がなかった。真田昌幸と言えば家康が最も恐れたと言ってもいいくらいの武将だったんだ。確かにここへ押し込められてはいるけれど、徳川についた信之様の命賭けの嘆願のおかげで幸村様と昌幸様は生きることを許されて、そのおかげで大助が生まれた。関ヶ原のあと家康がふたりの首をはねていれば、今、大助はここにはいないんだ」
大助に言葉を紡ぎながら僕は考えていた。僕は今、歴史を操作しようとし始めているのかもしれない、と。
大助はやはり僕の言葉に顔をしかめ、僕への眼差しに変化を露わにする。だけど僕は踏み出した。それが例え禁忌の一歩だとしても踏み出さずにはいられなかった。
大助が部屋を去ったあと、昨夜はもう他に誰も声をかけて来なかった。僕は部屋の隅に畳んで寄せておいた布団を広げ、目を閉じた。うとうとしては目が覚め、目が覚めてはうとうとし、眠れたか眠れなかったか自分でもよく分からないまま夜明けを迎えた。
寝る前に部屋を見回した時に見つけた寝間着に自分で着替えたのだけれど、着付けが拙かったために着崩れてしまっている。僕は立ち上がってそれを何となく直し、布団を畳んでまた部屋の隅に寄せた。
夜中に暑い気はしていなかったのに肌はべたついていて、着替えたいのにあいにくここには寝間着以外は昨日僕が着ていた浴衣しかない。それが着られるだろうかと広げて見ると、ところどころ汚れてはいるが着られないほどではなさそうだ。直したばかりの寝間着を脱いで僕はそれに袖を通し、廊下へ続く障子を開けた。
爽やかな風が吹き込んで気持ちがよかった。
着替えもとりあえず出来たのであるし、何も今すぐ幸村様の部屋に向かう必要もない。だったらどうしようと考え、僕は廊下に立ち尽くした。足裏にひたりとつく板がひんやり気持ちがいい。ぺた、ぺた、ぺたと右、左、右、と順番に足でひんやりした板を探っていると、いつの間にかあの桃の木が見える角まで出てきてしまっていることに気付く。
すぐそこは幸村様の部屋だ。いつ幸村様が出て来るか分からない。内記さんもいつやって来るか分からない。そう考えると緊張した。
「そこで何をしておる」
背後から昨日と同じ声が聞こえて驚いて、でも頭のどこかではそうなることは分かっていたし、そうならなければ自分がいつまでもどうしようもないままでいてしまうのも分かっていた僕は、それと同時にほっとした。
「着物が要り様か?……それは、自分で着付けたのか?」
内記さんが僕の姿を上から下まで見て言う。褒められるような出来でないのは自覚があるから恥ずかしいが、自分で着られるようにならないと、と思ったのは自分であったし、そのうちこれも慣れるのだろうと開き直るしかない。
「おかしい、ですか」
分からないことは尋ねるのも必要だ。その問いに対して内記さんは、いささかな、と小さく笑って襟元を直してくれる。小さく音を立てて左右の襟を引っ張られ、帯を締め直されると肌当たりがよくなった気がした。まだまだだなと思いながらお礼を言うと内記さんは、そのうち上手くなろう、と労ってくれた。
「幸村様のところか?」
「……」
「いかがした」
「内記さん。幸村様は、昨日の……」
さまざまなことを僕から聞き出したいのではないかと、やはり思う。昨夜は、何も聞かぬ、もうよい、と言ってくれたけれど、本当にそれでいいのか。何より僕は、大助に話をしてしまった。もしかするとそれがすでに幸村様の耳に届いている可能性だってないわけではない。だとしたら。
「いえ、いいです。自分で幸村様に確かめます。行ってきます」
内記さんの返事を待たず、僕は幸村様の部屋へと向かった。
「幸村様。鷹弥です。入ってもよろしいですか」
「うむ」
返事を待って僕は障子を開けて中に入る。
「幸村様。お話があります」
そう言って真正面から自分を見据える僕に幸村様は何かを察し、鷹弥、と呼んだ。
「私は昨夜申したはずじゃ。もう何も聞かぬと」
「はい。覚えています。ですが、僕は幸村様にお話があるのです」
僕は僕で、昨夜までと自分が変わっているのが感じられた。大助に話をした時点でそうだったのかもしれないけれど。
「ならば申してみよ。……内記!内記はおるか!」
幸村様の鋭い大声に廊下を急ぐ足音がし、障子の前で影が膝をつく。
「はっ」
「鷹弥と大事な話がある。人払いを頼む」
「御意」
答えて内記さんは下がり、足音が遠ざかる。それを待ってから、さて、と幸村様。
「はい」
僕は改めて背を伸ばし、大助から何か聞きましたか、とまず尋ねた。
「大助?いや」
そうか、大助はひとりで抱えているのか。
「昨夜、大助が部屋を訪ねて来てくれました。そこで、大助の幸せについての幸村様のお考えを伺いました。それをどう思うかと大助に聞かれ、僕は、幸村様の仰ることが正しいと答えました。でも大助は、何かが足りないようだと言っていました」
「足りぬ?」
「はい。きっと幸村様も大助の気持ちにはお気づきだと思いますが、大助は、幸村様や昌幸様が徳川の仕置を受けてここへ押し込められていることが口惜しくてたまらないのです。真田は徳川に負けなかったのに、なぜこんなところでくすぶっていなければならないのかと。自分も、真田の男子として生まれたにもかかわらずこの九度山のことしか知らずに生きていることが残念でならないようでした」
幸村様は厳しい顔をして僕の話を聞いている。本当にきっと大助の気持ちは知っているんだ、この人は。その上で、穏やかな日々こそお前の幸せだと大助に語り続けて来たのだろう。
「それで、大助がそなたに何か申したか」
「大助ではなく、僕が……」
「そなたが?」
「はい。僕は大助に、大助がここに生きていられるのは、幸村様が徳川の手によって首をはねられなかったからだと話しました。幸村様の兄上である信之様の必死の嘆願で徳川が配流で済ませたのだと」
「そなた……」
「幸村様、僕は……僕は、知っています。どうして幸村様がここにいるのか、それをさせたのが徳川で、上田城で何があったか、関ヶ原で何があったか、僕は知っています!」
もう戻れない。僕は踏み出した。
考えれば、僕が400年前のここへ足を踏み入れた時点で歴史は少なからず歪んでいるんだ。歴史は過去の積み重ね。唯一無二の地層。そこへ未来から針が1本落ちただけでも、雨が1粒落ちただけでもそれは歪みを生む。
もう遅い。
「僕で答えられることなら答えます。今までのことも、これから400年の先のことも。だから幸村様……」
それでもそのひとことを口に上らせるのはひどく苦痛だった。自分で自分にとどめをさすようなものだから。
「鷹弥」
心臓が止まりそうなほどの緊張が僕を押し固める。
「私は」
幸村様はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「この真田源次郎幸村は」
幸村様の両の手が膝の上で握り締められ、白く変化していく。僕にとってひどく苦痛なのと同様、幸村様にもそれはひどく苦痛を伴う決断なのだと思って僕は黙って言葉を待った。
「やはり何も聞かぬ」
僕は驚きの声さえ出せなかった。
「鷹弥」
「……はい」
「大助だけではない。私も同じじゃ。私はの、まだ何も為しておらぬ。上田でのことは父の手柄、今、その真田の地は徳川についた兄が治めておる。兄の武功で真田の家は安堵された。じゃが私は何もしておらぬ。人質として長い時を過ごし、初陣も遅れた。真田のためにいまだ何も為してはおらぬのじゃ」
何も為していない、そう語る幸村様はとても哀しそうだった。いずれ己が必要とされる場が来た時に真田の名を汚さぬようにと日々鍛錬に励むのは、すなわち何かを為すため。幸村様は何かを為せるその日をここで待っている。
「私は己の手で何かを為してこの命を終えたいのじゃ」
僕が知ってる未来は幸村様にとって幸せなものではないと思っていた。でもそれがもしも、幸村様にとっての何かに為り得るとしたなら。
僕が400年前の過去に足を踏み入れたことが、幸村様が何かを為すための礎となるならば。




