*伍*
まんじりともせずに僕たちは対峙した。長い間、そうしていた。幸村様が聞きたがっていることを僕がその通りに話してしまうことはきっと許されない。それは歴史を操作することに他ならない。
歴史とは時の積み重ねであり、如何に些細なことたりとて零れ落ちることはない。何かが何かにつながっていて、誰かが誰かとつながっていて、そうやって歴史という唯一無二の地層が出来る。もしもなんてない。たらればの話なんて滑稽なだけでどうしようもない。
僕は知っている。戦国という一時期がどう進み、どう終わり、誰がどこで何をしたのか、どこで誰がどうなったのか、知っている。
真田幸村は大坂夏の陣で命を散らす。嫡男の大助しかり。織豊時代は終わりを告げ、徳川の世が260年に渡って続く。その徳川の時代に、関ヶ原で東軍についた兄・信之は家を残し、父と共に西軍についた幸村のその子どもたちは、奥州伊達家重臣・片倉家で保護され生き延びることになる。
僕が幸村様に何かを話せば、それがどんな些細なことだとしてもそれをきっかけに歴史が歪むかもしれない。そう思うと、ただ、怖い。
「話せません……」
僕は喉の奥から声を絞り出してやっとのことでそれだけを告げた。幸村様は一瞬だけ眉間に皺を寄せたふうだった。
「だから、幸村様が、僕にここを出て行けと言うなら、すぐに出て行きます」
仕方がない。他に行く当てなんかあるはずもないけれど、仕方ないじゃないか。幸村様は僕のことを不審がっているし、僕は幸村様の問いには答えられないんだから。
……幸村様の返事はない。それが返事かと思って、僕は席を立った。幸村様に頭を下げ、持って出るものも何もない僕はそのまま障子を開けて廊下に出る。そこから幸村様を視界の端に入れながらそっと、障子を閉めた。
大助の姿も内記さんの姿も見当たらない。僕はそれにどこかでほっとしながら、草履も履かずに屋敷を出た。
すぐに夕焼けが西の空に広がって、カラスたちがねぐらへと帰っていくのを見上げた。あのカラスたちにさえ帰る場所がある。だけど今の僕には……。知らず、涙があふれた。これからどうしよう。どうすればいい。どうすればよかったんだ。僕はどうすれば……。
すっかり辺りが暗くなった時、僕は大助と昼間に訪れた川岸に座っていた。他にどこも思いつかなかった。幸村様の屋敷以外はここしか知らない。
ひたすらに静かな闇に川の流れる音だけが広がる。僕は平べったい大きな石に腰を下ろし、両膝を抱えてそこに顔を埋める。そうして自分自身を抱きしめた。辺りに広がる闇、瞼の下に広がる闇、次に目を開けた時、ここが、日本史の授業を受けていたあの明るい教室ならどんなに嬉しいか……。
――夢を見た。
大坂。あれは真田丸。あの赤い一陣は幸村様の隊。前田利常、井伊直孝、松平忠直らの各隊が一気に真田丸へと押し寄せる。それに真っ向対峙の真田隊は、ありとあらゆる櫓、狭間から、弓矢と銃弾を絶え間なく敵隊へと降り注がせる。空堀に殺到する徳川勢を、500余りを率いて出た大助が蹴散らし、直後、その空堀への集中砲火で地獄絵図と化した一帯。
幸村様は1日にして天下にその名を轟かせる。10余年に渡る蟄居生活ののちに掴んだ名声。
冬の陣。
軍配を振るう幸村様の周りには六文銭を掲げた旗印が風を受けて翻り、幸村様は槍を手に疾風のごとく駆けて行く。幸村隊は伊達の鉄砲隊に屈せず、槍を突き出しては伏せ、伏せては槍を突き出しを繰り返し、伊達隊をその自陣へと追い返す。
翌日、冬の陣で家康が本陣を置いた茶臼山に陣を張った幸村様は、毛利勝永隊の猛攻で崩れた徳川勢の虚をつき、3500を率いて家康本陣へと突進する。けれど圧倒的な兵力差の前に力尽き、安居天満宮でその命を終える。
その幸村様が嫡男・大助に託した、大坂側総大将・豊臣秀頼の出馬は最後まで叶わず、大助はその秀頼を追って自害して果ててしまう。
夏の陣。
目が覚めた。
だけどそこは僕が願った明るい午後の教室ではなかった。時は戦国。ここは九度山、闇の中。
「鷹弥殿!」
不安で心細くてたまらない者の耳には幻聴まで聞こえる。……と思ったけれど。
「鷹弥殿!」
幻聴ではなかった。声のした方も闇の中だが、じっと様子をうかがっているとその気配が近づいて来るのが分かる。
「鷹弥殿!」
見えなくても僕にはそれが大助のものだと聞き分けられたけれど。
「鷹弥殿!」
何度目かを呼ばれて、僕は小さく身じろぎをした。不意に雲が晴れて、月明かりが辺りをぼんやりと照らす。それで僕を見つけた大助が、また名を叫んだ。
大助は足元の悪さを物ともせずに駆け寄ってきて、僕の前で立ち止まる。そして、よかった、と小さく零した。
「鷹弥殿と夕餉をご一緒にと思って部屋を訪ねたところ、父上が……。それで探しに出ようとしたら、父上は探さずとも良いと仰って……」
「……」
「ですが!この大助は、鷹弥殿に命を助けていただきました!そのような方が何も言わずに出て行かれたとなれば、探さずにはおられませぬ!確かに私めは鷹弥殿にご迷惑をおかけ致しました。ですが、本当に無事でよかったと、そう思ったのです。鷹弥殿がご無事で本当によかったと!父上は……、私の父ではありますが、父は私よりも先に鷹弥殿をお助け致しました。ですから、何か行き違いだと思うのです!」
大助はそこまで一気に話して口を閉じた。言えることをとりあえず全部並べたようなそのあまり脈絡のない言葉に、却って真実味を感じる。きっと大助は何も知らない。ただ、我が子である自分よりも僕を先に助けたような父が、黙って出て行った僕を探さなくてよいと言うことへのある種の反発心を持っただけだろう。
「ありがとう」
僕は大助に礼を言った。でも帰れないと思った。帰ればまた、幸村様に聞かれる。でも言えない。でも聞かれる。結局は堂々巡りだ。
私と一緒に帰りましょう、と手を差し出してくる大助の手を僕は掴めない。でも掴みたい。でも掴めない。でも……。
「帰ればよい」
大助の後ろから聞こえたのは、思いもしない人の声だった。僕は瞬間的に身を固くした。大助が、父上!と言って一歩下がる。
幸村様は僕の目の前に立ち、月明かりに照らされた僕を見る。
「寒かろうに」
予想だにしていなかった言葉を聞き逃しかけたけれど、耳の中で反芻すればそれは確かに、「寒かろうに」。
幸村様は僕の肩に昨日のようにふぁさっと羽織をかけてくれた。けれどそれは昨日のように幸村様のではない。僕にかけるために屋敷から持ってきてくれたのだと知る。
「屋敷でさえあれほど寒いと申しておったのが、こんな川の傍では風邪をひく」
どうして。どうして僕を迎えに来たんですか。僕はあなたに何も話すことは出来ない。あなたが望むようには出来ないのに。それとも連れ帰って無理やりにでも口を割らせるつもりですか。
「大助がな」
幸村様は闇夜に光る月を見上げて話し始める。
「初めて私に盾突いたのじゃ。この幸村は父に盾突いたことなど終ぞないというに」
「も、申し訳ございません!父上!」
大助が頭を下げるが、それは僕のためにしてくれたこと。
「よい、大助。……鷹弥、私はの、大助がそなたを探して参ると屋敷を飛び出すのを見て、己に問うてみたのじゃ。子が親に盾突くは、親が盾突かせるようなことをしておるからではないかと思うて。大助は、私がそなたを探しに行かずともよいと申したことに腹を立てておった。ならばそれは私の過ちではないのかと」
「父上……」
「己のために命を賭けてくれる者に対して己が何もせずにおるは道理に反する。故に大助はそなたを探しに向こうた。私はそなたに大助を助けてもろうた。じゃが私は何をした。そなたを責めて追い出しただけじゃ」
「ちが……僕が……」
勝手に出て来たんだ。逃げて来たんだ。幸村様のせいじゃない。
「だけど僕は……僕は幸村様のところへは……僕は幸村様の問いに答えられない……」
いっそ何も知らなければ。いっそ幸村様のことさえ知らずにいたなら。
「何も聞かぬ」
「……え」
「聞かぬ」
「でも、だけど、それじゃ、幸村様は……」
「もう、よい。よいのじゃ、鷹弥」
幸村様は僕に手を伸ばし、羽織を直してくれた。
帰りましょう、と再び手を差し出す大助に今度は従い、僕は足を踏み出した。本当に帰っていいのかまだ心の片隅で自信が持てずにいたけれど、手を引っ張られるまま僕は歩いた。でもすぐに、その僕の足元に目をやった幸村様が足を止めてしまう。
「草履も履かずに出て来よったのか」
「え!?」
大助が驚いて僕の足に視線を落とす。それで急いで自分の草履を脱ごうとするものだから、大丈夫、と止めようとするが幸村様に先を越される。
「よい、大助」
言って幸村様は、僕に背を向けてその場に屈む。急にどうしたのかと思ってその背中を見つめていると、振り返った幸村様が、早う乗らぬか、と僕に笑う。
「歳は重ねたが、まだまだそなた如きを背負えぬほど耄碌はしておらぬ」
「でもそんな……」
まさかあの真田幸村に背負ってもらうなんて有り得ない。真田幸村という人を知っている僕にとってはためらう以前の問題で、拒絶にも似た気持ちになる。
「早う乗ってくれねば、私はここでいつまでもこうしておらねばならん」
幸村様は脅しにも似たことを言い始め、首を縦にも横にも振りかねて僕は立ちすくんでしまった。大助はその父の背を見て、私も幼き頃はよく背負うてもらいました、と懐かしむ。
「背負われて下さりませ、鷹弥殿。父は鷹弥殿が背負われて下さらぬ限り、例え月が沈もうと日が昇ろうと、ここでこうしておりまする。ですから、さあ……。羽織は落ちぬよう袖を通されませ」
大助が肩から取って広げてくれる羽織に袖を通すと、続いて背中を軽く押され、僕は何度も深呼吸を繰り返したあと決心した。幸村様の背中に近づき、そっと、そっと、その肩に手を置く。と、幸村様は僕が肩に手を置いたその一瞬を逃さず、僕の膝裏に素早く手を差し込んで僕の体を軽々と持ち上げてしまう。そして一度大きく揺すってバランスを取ったかと思うと、軽いのう、と小さく言って歩き始めた。
月明かりにぼんやりと照らされただけの夜道を幸村様の背に揺られながら、僕はその背中がひどく温かいことに泣きたくなった。
屋敷に戻ると門の前で内記さんが待っていて、幸村様が僕を背負っていることに当然驚いてはいたが、やはり何も言いはしなかった。幸村様は僕が裸足だったことを告げ、足を洗ってやってくれ、と内記さんに言う。
「鷹弥、こちらへ」
内記さんは僕を井戸へ連れて行き、足を洗ってくれた。そうしながら、傷がないかと確かめてくれる。最後に丁寧に拭ってくれ、草履を持ってきて足元に揃えてくれた。部屋へ戻るように言われてその通りにすると、そこは灯りが灯されていてほっとする。ひとりきりの闇があんなに心細いものだなんて、いつもどこかしらに光るもののある空間で生きてきた僕には驚きであり、恐怖だった。
畳の上にぺたりと座り込んで僕は、ああ帰ってきてしまった、と思った。幸村様は何も聞かぬ、もうよい、そう言ったけれど。
……もしも歴史の真実を過去の人間に知らせることが許されることなら、僕は果たしてためらわないだろうか。歴史は取り零しのない時間の積み重ねであり、それに手を加えることは蟻の穴から堤を崩すようなものだとは思う。何かがどうかなって、僕が生まれない可能性だってゼロじゃない。
だけど。
幸村様は近い未来、散る。鎧の如き真っ赤な血飛沫と共に大地に還る。それを知っていて何も知らせないのは、それは、幸村様を見殺しにすることにならないか。もしかして僕が歴史の真実を話すことで救うことが出来るのなら、話すべきなのか。僕は幸村様を助けた方がいいのか。助けるべきなのか。そのために僕は400年の時を駆けて来たのだろうか。もしもそうなら、例え僕が21世紀のあの時に生まれることがなくなるとしても、僕はそうするべきなのか。
幸村様がかけてくれた羽織の袖を抜き、僕はそれを胸の前でぎゅっと握りしめる。
幸村様を救うため、僕がここへ駆けて来たのだとしたら。




