*肆*
親子で鍛錬する様子はあまりに激しくて、縁側に腰を下ろして見ていただけだというのにとても疲れた……と思った時にはすでに意識が薄れかけてきていて、ダメだと思うのに下がる瞼はどうしようもなく、気付けば僕は縁側で風に吹かれながら眠っていた。
はっと目が覚めて飛び起きると大助が傍にいて、喉は渇きませぬか、と聞いてくる。うーんと考え、渇いたかも、と答えると大助は笑って僕に湯呑を差し出した。
「そう思って、今、水を汲んで来たところです。どうぞ」
「あ、ありがとう」
真田と言えば猛将の家系。幸村様の祖父・幸隆始め、父・昌幸、その兄である信綱、昌輝といった具合に、大大名にはなれなかったがその活躍ぶりは凄まじい。けれど幸村様の纏う空気は穏やかそのもの。戦国とか真田とかの枠から外して見れば、ただの穏やかな男でしかない。大助しかり。
大助にもらった水はおいしくて、僕はごくごくと一気に飲み干してしまった。思ったより喉が渇いていたらしい。からになった湯呑を受け取ろうと大助が手を出して来たので、ごちそうさまでした、と言って僕はそっとそれをその手に委ねた。
「あの……」
大助は湯呑を持ったまま視線を下げ、小さく言った。
「もしよろしければ、先ほど父上の申しておりましたにじゅうなんとかいうことを私にお聞かせいただけませぬか?」
21世紀のことか。つい肯定の返事をしてしまったことだし、余計なことをうっかり言ってしまわないように十二分に注意をして少しばかり話して聞かせてあげようと思った僕は、いいよ、と大助に笑いかけた。
「ありがとうございまする!では先にこれを片づけて参りますので、しばしお待ち下さりませ!」
言うが早いか大助は湯呑を持って廊下を去って行った。自分が飲むためじゃなくて僕のためにしてくれたことだ。僕が片づけに行けばよかったと少し後悔した。
「お待たせ致しました」
大助が息を弾ませて戻ってくる。決して廊下を走って来たわけではないだろうが、気が急いたのだろう。
「父上がご用事で出ておいでの間はここを好きに使ってよいとのことでしたので、庭へ下りてあの桃の木の下にでも座りませぬか」
僕が頷くと、大助は庭の隅から大きな石をふたつ運んで来て、それを桃の木の下に置いた。横に並ぶでなく、向かい合うでなく。
「どうぞ」
勧められてそのうちのひとつに僕が座れば、もうひとつに大助が座る。その顔は期待感に満ち溢れていた。緊張するので深呼吸をし、何をどう話そうかとしばらく考える。
「……僕は」
「はい!」
あ、ちょっと調子狂うかも……。これが幼稚園児くらいならいいんだけど、あいにく大助は僕と同い年で服のサイズも似たような男子なわけだ。まるでクラスメイトがやたら丁寧な口調でにこにこしながら僕を期待感たっぷりの目で以て見据えているようなものだ。調子づく方がおかしいと思う。でもそんなことを大助に言ったって始まらない。僕は腹を据えることにした。
「僕は21世紀の中学生。今がきっと17世紀だから、今から400年後の未来かな。その400年後のこの国に僕は生まれた。僕が住んでいるのはここよりずっと東で、海が近い町でね。そこにある中学校ってところで、同じ年くらいの男の子や女の子たちと勉強してる。国語に数学に英語に……数学はちょっと苦手。家族は父親と母親、そして僕の3人。あ、僕の鷹弥っていう名前は、鷹のように勇ましく大空を飛び回れって父親がつけてくれたんだって」
そこまで話したところで、大助の様子がおかしいことに気付く。どうやら僕の話がまったく理解できないらしい。そりゃそうだ。まるで異国語みたいだと思うよ、実際。
「大丈夫?」
顔をのぞき込みながら聞くと、大助は、うむむ、と唸っていた。
「鷹弥殿。申し訳ござりませぬが、もう少しゆっくりと、私にも分かるようにお話願えませぬでしょうか。どうも私は、父上がよく仰られているようにまったくの田舎者でして、鷹弥殿のお話がなかなか分かりかねるのです。あ、聞いていないわけではないのです。ただ、どうも……」
申し訳なさそうに申し訳なさそうに言う大助に急激に親しみが沸く。
「うん。じゃあさ」
言って僕は、どこが分からないかを大助に確認しながらもう一度話をし、ひとつひとつもっと説明をしてあげながら話を進めた。それは骨の折れる作業ではあったけれど、何となくでもひとつ分かるたびに喜ぶ大助を見ているとそんなことは気にならなかった。
そうしてどれほどの時間をふたりで過ごしたのか、楽しそうじゃのう、という幸村様の声が聞こえて僕たちはそろってハッとしたくらい話に夢中になっていた。
「昼餉を持ってきた内記が、いくら呼んでもふたりともまったく気づかぬと嘆いておったぞ。ほれ」
幸村様の指さした先には、ふたり分の膳が置かれてある。空を見上げると、太陽は南中を通り過ぎている。気付いた途端、おなかがすいた。
「そなたたちのために塩むすびにされておるようじゃし、どうじゃ。ふたりで屋敷の周りを散歩でもしてきては」
幸村様は手つかずの昼餉の膳を見て提案した。
「でも……」
反して僕の口からは、つい思ったままの疑問が零れる。
「そんなこと許されてるんですか?」
和歌山城主・浅野家の監視があるはずだ。徳川によってこの地に蟄居させられている身で村の中を自由に出歩くなんて構わないんだろうか、と思っただけだったんだけど。すぐには応答のない幸村様を見て僕は、それがとんでもない失言だったことを知り、血の気が引いた。
どうしようどうしようと頭の中がぐるぐる回り、でもいいアイデアは出ないし、万事休すかと思われたその時、幸村様が声を上げて笑った。
「そこまでのものではない。確かに我らがここに住まうことは我らの意思ではないが、浅野家の御先代と我が父とには誼があっての、お陰で我らもそこまで堅苦しい生活ではないのじゃ。そなたたちが屋敷の周りを散歩するくらいは誰に咎められるでもない。安心せい」
「……はい」
それ以上、それ以外、他にどんな返事が出来ただろう。やはり油断は大敵なんだ。覆水盆に返らず。
うつむいて黙り込んだ僕を見た大助は、鷹弥殿、と僕の背にそっと手を触れた。それだけで他には何も言わなかったが心配してくれているのは十分に伝わって来たから、僕は思い切って顔を上げた。そして大助を見ると、大助はひとつ頷いて、内記のところへ参りましょう、と言う。驚いてまた背筋が寒くなりかけたが、大助は昼餉を指さして続けた。
「漬物も一緒に弁当にしてもらうのです。近くに川がありますので、そこへ行っていただきましょう」
ああそういうことかと安心して頷いた僕の腕を取って、大助は幸村様に、行って参ります父上、と挨拶をしてその場をあとにした。
内記さんに頼んで弁当にしてもらった昼餉を携えた僕たちは、大助の言っていた川へ下り、勧められるまま川の水で手を洗い、顔を洗い、足を浸けた。
「気持ちがよくはございませぬか」
「うん、気持ちいい。でもちょっと冷たすぎる、かも」
山から流れて来る水は冷たすぎて段々と足先が痺れてきたように感じる。僕の様子を見て大助は笑い、では、と隣に置いておいた弁当を手に取る。
「せっかく内記が支度してくれた弁当です。いただきましょう」
ふたり分を携えていてくれた大助がひとつを僕に差し出す。僕が毎日のように見ているプラスチックのじゃないその「弁当箱」はとてもいい香りがして、綺麗に形作られたおむすびにもその香りがほんのりと移っているようで癒される。ぱくっと一口食べると、塩気が口に広がっておいしい。これはただの塩むすびで、海苔も巻かれていない。けれどとてもおいしく感じる。普段はコンビニでツナマヨとかエビマヨとかカルビ入りとか鮭入りとかを選ぶばかりで、絶対に真っ白の塩むすびなんて選ばないのにな、と不思議で仕方なかった。
腹を満たしたあとは、冷たすぎる川の中へ、けれどふたりして入ってみることにした。こうするのです、と大助に教えてもらって浴衣の裾を捲り上げ、僕は大助を追いかける。
水深が足首まで達した瞬間には、ふっと、感じる冷たさが増した気がした。首っていう場所は冷やしちゃダメって言うもんなぁ、こういうことか。もうギブアップしようかと思って大助を見ると、案外平気そうにざぶざぶと入って行っている。驚くと同時に変な対抗心が生まれてしまって、僕は、ぐっと足に力を込めて水底を踏みしめて先へと進んだ。
水深はじわじわと深くなり、とうとうふくらはぎの中ほどまでが水に浸かるくらいになった。ここまでの深さになると身軽に動くことは出来ない。一歩一歩を踏み出すのも必死、その場に止まるのも必死。でなければすぐに流れに倒されてしまいそうになる。
「鷹弥殿!」
すっかり膝まで水に浸かった大助が僕を呼ぶ。こちらに魚がおりまする!と。魚?と僕も自分の周囲を見回すと、小さな魚たちが結構泳いでいることに気付く。
「こっちにもいる!」
だから僕は大助にそう言った。
すると大助は、ではそちらへ!と言って僕の方へ寄って来ようと、膝まで浸かった足を持ち上げる。が、それはやはり至難の業だった。人間、足首までの水深でもう動きがかなり制限されるっていうところ、大助は膝までどっぷり浸かっているいるのだから当然と言えば当然だった。
あっ!と大助が短く叫ぶのと、あっ!と僕が短く叫ぶのとどっちが早かっただろう。
大助は片足を水底から離した途端に流れに負け、バランスを崩して水の中に派手な音を立てて倒れた。
早く助けに行かなければと思うのにこちらも膝下の半分ほどまで水に浸かっているために思うように進めなくて気が焦るばかり。そうこうしている間に、上半身が流れと向き合う形になってしまった大助が、早い流れに押されてバランスを崩してかけている。押される体を何とか水底に手を着いて支えているようだが、危険信号が僕の中にけたたましく響く。
「大助!」
きっと気のせいなんだけれど、流れがさっきより速くなった気がするし、水が重くなった気がする。気持ちだけが焦る中、僕はひたすらに大助の元へと頑張る。もうちょっと、もうちょっと、もうちょっとで……。
「大助!」
僕が叫ぶのと、大助がとうとうバランスを崩すのと、ぎりぎり僕が叫んで大助の腕を掴んだ方が早かったらしい。僕も引っ張られる格好でバランスを崩しかけたけれど、火事場の馬鹿力ってやつか、意外なほど踏ん張れた。
「鷹弥殿!」
「頑張れ、大助!足に力を入れて、何とか立ち上がるんだ!」
「……はい!」
僕が後ろに重心をかけながら大助を引っ張る。大助は渾身の力を込めて水の中で立ち上がろうとする。岩の苔で足裏が滑る。大助の腕を掴んだ手が滑る。息も満足に吸えない。だけどこの手は絶対に離せない、そう思って僕はただただ、大助が立ち上がってくれるのを待った。
その時、誰かの声が聞こえた気がした。そしてその瞬間、僕は大助と一緒に水の中へと倒れ込んだ。
……目を開けたらそこには果てしない青い空が広がっていて、白い雲がひとつ、ぽっかりと浮かんでいた。綺麗だなぁ……とぼんやりした頭で思っていると、鷹弥!と大声で呼ばれてハッとする。
青と白の視界が遮られて見えたもの、それは紛れもなく幸村様の顔だった。びっくりして体を起こそうとして僕は思い出す。
「大助!?」
左右にバッと首を振ると、僕の足元の方にずぶ濡れの大助がうなだれて座っていた。大丈夫だったんだ、と安心すると、また思い出す。
「幸村様!?」
幸村様は僕の隣に屈み、起こした僕の体を支えてくれていた。その顔は険しくて、あぁ怒られる、と僕は覚悟した。真田の嫡男を危険な目に遭わせたんだから当然だろう。
「ごめ……」
けれど謝りかけた僕の言葉は幸村様に遮られた。
「すまぬ!」
意味が分からなくてきょとんとする僕に幸村様は苦虫を噛み潰したような顔で続ける。
「我が愚息のせいでこのようなことに……。すまぬ、鷹弥」
「……え?」
「そなたは大助を助けてくれようとしておった。そのそなたを大助は助けられなんだ。子の責めは親が負わねばならん。大助のために命を賭けてくれたそなたにこの期に及んで情けないことを申すようじゃが、わけあってこの命をくれてやることだけは出来ぬが、それ以外のことなら何なりと申せ」
幸村様はきっと本気なんだろうけれど、申し訳ないけれど、僕にはちょっと理解がついていかない。確かに流れに負けそうな大助を助けには行った。でもそれって当たり前のことだし、別に幸村様が命をどうこう言うようなことじゃないと思うんだ。
「僕……」
「うむ」
「僕のことは幸村様が助けてくれたんですか?」
「当たり前じゃ!そなたを死なせるわけにはいかぬ!」
幸村様は真剣な眼差しを僕に向けた。
「だったら、お礼を言うのは僕の方です。僕は大助を助けには行ったけど、その僕と、僕が助けきれなかった大助を助けてくれたのは幸村様なんですから」
「まあ、そう、ではある、が……」
どうも納得がいかなさそうだが、そういうのは時代のせいなんだろうか。幸村様だってびしょ濡れなのに。
「助けてくれてありがとうございました」
僕は幸村様に言った。そしたら幸村様、ハッとして。
「……この恩は決して忘れぬ。大助を助けてくれた恩、この幸村、終生忘れぬ」
そう言って厳しい顔をした。それを聞いて僕の足元の方でうなだれていた大助が、そちらもきっとお礼を言いたいんだろうが、鷹弥殿!まことにまことに……、と言葉にならないでいる。
「大助が無事でよかったー!」
突如として叫んだ僕にか言葉にか幸村様と大助は驚いていたけれど、それが何よりだと思ったからそう口にした。大助が無事だったこと、幸村様が僕のことをしっかりと助けてくれたこと、それもとてもとても嬉しくて、僕は青い空に向かって思い切り叫んだ。胸がすっとした。
早く着替えねば風邪をひく、と幸村様に言われて、3匹の濡れ鼠たちは屋敷へ戻った。出迎えてくれた内記さんは僕たちのあまりの様相にぽかんとした顔をしたが、何も言わずに着替えを支度してくれた。
僕は幸村様の部屋ではなくて僕に与えられた部屋に連れて行かれ、内記さんに世話をされた。パリッとした清潔な浴衣に着替えさせてもらいながら、いつまでここにいることになるかは分からないけれど自分で浴衣くらいは着られるようにならないとな、と思った。
これでよろしい、と内記さんが言った時、障子の向こうから幸村様の声がした。
「鷹弥、しばしよいか」
「はい」
僕が障子を開けて幸村様を迎え入れる間に内記さんが座布団を上座に敷き、幸村様はそこへ座る。僕も近くに座らせ、内記さんには下がるように言って、部屋にはふたりだけになった。
おかしなことに、幸村様の部屋にいる方が落ち着くと思った。
幸村様は何か用があってやって来たんだろうに何も言わずに僕を見つめる。部屋云々の問題じゃなく何だかとても居心地が悪くてもぞもぞしてしまう。
「そなた……」
「え?あ、はい」
「そなた、一体どこから来た」
それは最初に話したはずだ。21世紀の中学校から、って。
「そなたは何者じゃ」
21世紀からタイムスリップして来ちゃったただの中学生なんだけど、そういうことじゃないんだろうな、この状況は恐らく。僕は言葉に詰まってしまった。
「そなたは、迷い子だと申した。二十一世紀の中学から来た十三歳の迷い子だと」
完璧に覚えてると感心すると同時に、この人の隠れた賢さに僕は不意に怖くなった。
「なのにそなたは、ここが真田の屋敷で、我らがここに蟄居の身であることを知っておる。そなたは確かにどこぞの草というわけではあるまい。じゃが、そなたが何者なのかは聞かせてもらわねば、やはり、いかぬ」
幸村様は僕をある意味では怪しみ、ある意味では怪しんでいない。それが苦しくてそんな顔をするんだろうか……。
時は戦国。ここは九度山、真田の屋敷。
風が止まって蒸し暑くなった夕暮れ、僕の背を汗が一筋、流れた。




