09. 第1章 第9話 『我慢の仕方が分からない……』
病院から戻ってきた、自宅の私室。
壁にかけたポスターの中の、『星天の聖乙女』御堂さんの天使のような微笑みが、膝を抱えて部屋の隅に蹲る僕を見つめている。
異臭という程ではないけれど、なんだか違和感を覚える部屋の匂い。
身体の変化が、嗅覚にも影響を及ぼしたのだと思う。
でも、女性からすると僕ってこんな匂いだったのかなって、ちょっとショック……。
ポスター、変えようかな……なんだか無性にいたたまれない気分になってきた。
探索者ギルドが用意してくれたタクシーに乗って、病院から雪奈姉と戻ってきた直後。
我慢の仕方がわからなくて、決壊してしまった僕の膀胱。
伸び悩んでいたとはいえ一応は男の子だった頃と比べて身長はどう見ても十五歳くらいに逆戻りしているけれど、実際の中身は二十歳にもなってまさかの失態。
とめどなく股を濡らす生暖かい温もりと、こんな時なのに男として残された本能がわずかな興奮を覚える自分に、果てしない自己嫌悪に陥って。
情けないやら悲しいやら、身体への不安と共に決壊した涙腺。
挙句の果てに茫然自失のまま、雪奈姉に促されてお風呂に入って――。
覚悟もできないうちに対面した自分自身の神秘の花園に、僕の心は完全にオーバーフローしてしまった。
「……黎、大丈夫? 風邪ひいちゃうわよ」
コンコン、と控えめなノックの後、ドア越しに雪奈姉の優しい声が響く。
名前。戸籍の書き換え手続きが進む中、雪奈姉もすんなりと『黎』という名と、この白銀髪の『妹』を受け入れてくれた。
むしろ男だからどうでもいいって、お洒落なんて無視した安物だけを着ていた僕を不憫に思っていたのが決壊して。
『やっと可愛い服を買ってあげられる』と、少し嬉しそうだったくらいだ。
「う、うん……今、出るね」
姉さんが貸してくれた、少し大きめのルームウェアを被るようにして着る。
下着の正しいつけ方は後で教わろう。
うん。
ちょっと、その、食い込んでたりする気がするし。
もぞもぞと、薄布をそっと引っ張りながら、覚悟を決める。
ぺたぺたとすごく軽い足音と共に裸足でリビングに戻ると、雪奈姉は温かいココアを淹れてくれていた。
僕が座るのを見届けてから、雪奈姉は小さく息を吐く。
「陽だまり鉱業の皆さんのことも、烏丸さんから聞いたわ」
「……うん」
お風呂に入っている間、電話がかかってきていたのは知ってたけれど、そういう事だったんだと理解する。
「黎が、自分を責める必要はないのよ。彼らの命が繋がって、西の特区で新しい生活ができる。待遇もむしろ今までよりも良い位だって、仰っていたわ」
雪奈姉の言葉に、僕は小さく頷いた。
そうだ。立ち止まっている暇なんてない。
僕にはまだ、ううん、むしろ変わるきっかけを手にした今だからこそ、なおさらやらなきゃいけない。
やりたい事がある。
部屋に戻った僕は、画面が罅だらけの古いスマホを起動した。
検索窓に打ち込むのは、『魔力欠乏症 根治』の文字。
検索結果のトップに出てきた医療機関の公開情報と、探索者ギルドの公式見解。
今までは対症療法の手配だけで手いっぱいで詳細まで調べられていなかった、病院でも言葉を濁されてきた実際の回復症例を見て、僕は絶望で目の前が真っ暗になった。
『――一部高ランクボス級モンスターならびに、UMのみに存在する魔晶核を用いることで根治が可能。ただし、最低でもA級以上のUM魔晶核が必要。これらは国家戦略物資に指定されており、市場取引は原則禁止。特例として有資格者むけオークションで落札が許されるが、推定開始価格は最低でも50億円を下らないと――』
ご、50億!? 上級探索者は実入りも出費も天井知らずとはいっても、そんな馬鹿な……。
僕のこれまでの手取りなんて補助金や税制優遇措置を加味しても月15万位だよ?
いや、お金の問題じゃない。『市場に出回らない』ということは、どんなに僕がアタッカーとして正規のクランに入って出世しても、雪奈姉のためにA級以上のUMの魔晶核を譲ってもらうことなんて一生不可能に近いということ。
脳裏に、5年前のあの日が蘇る。
両親が帰らぬ人となり。
ギルドの職員さんを前に涙もなく呆然とする僕を抱きしめる雪奈姉の、あまりにも軽い身体。
ふわふわとどこかに消えて行ってしまいそうな、それなのに温かくて、優しい感触。
存在そのものが消えていく、あまりにも無情で残酷な絶望の中にいながら、それなのに。
『お姉ちゃんが、怜を守るから、きっと……守るから』
って、笑って、浅い呼吸で抱きしめてくれた。
たったそれだけの無茶で、優しくて温かい手が目の前で透明に透けはじめて、冷たくなっていく。
あの、悲しみすら殴り飛ばされるほどの、恐怖。
あんな思いは、もう二度と嫌だ。
たった一人の家族を、何をしたって、この世界に繋ぎとめる。
今のこの容姿なら、人外ともいえる絶世の美貌なら……タクシーの運転手さんだって、僕に見蕩れて事故を起こしそうになりかけてた。
上層部や権力者の機嫌をとり、十何年も『ご奉仕』でもすれば――もしかしたら手が届くかもしれない。
けれど、月に一度の高濃度魔素カプセルで延命している姉さんの身体は、そんなに長くは保たない。
ううん、僕の馬鹿。そもそもそんな手練手管……ちがう、伝手もなにも、持ってないじゃないか。
「……国にも、ギルドのルールにも、頼れない」
ギュッと、壊れかけでだましだまし使い続けてきたスマホを握りしめる。
誰にも知られず僕一人の力で、A級のUMを狩って魔晶核を手に入れるしかない。
そのために強くなる手段が……今はある。
もう、普通の成長すらできない僕じゃない。
それどころか、それ以上のなにかを手にしたことは間違いない。
やるんだ。
たとえそれが、S級探索者の領域だとしても、そこで僕の全てが終わるとしても。
決意を改めて固めた僕の視界のど真ん中に突然、紫色のウィンドウが弾けた。
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【Mission】
――いい覚悟ね。肉人形相手に媚びるなんてありえない。
力を振るうための舞台に上がりなさい。
①:単独で『F級亀裂』を攻略すること。
②:人目のない亀裂内で、魔装を『3種類』創造すること。
わたくしのお眼鏡にかなわない不細工は却下よ。せいぜいわたくしを、愉しませなさい。
成功報酬:褒めてあげるわ
失敗ペナルティー:お・し・お・き
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「え……ミッション、二つ?」
F級亀裂の単独攻略。そして、僕のスキルの効果2つ目、『魔装具の創造』を実用できるようにすること、かな?
それにしてもいろいろと、やっぱり横暴だよ……。
ちょうどいい練習ミッション、っていう事なんだろうけれど、いろいろと突っ込みどころしかない。
でも、やらなきゃいけない。
紫雫がくれた力を引き出して、僕自身が強くなるために。
「でも、どうやって……」
亀裂に入るには、探索者ギルドが専用アプリ内で主催する『オークション』で、攻略権利を落札しなければならない。
亀裂は発生した時から入場可能人数が制限されていて、一度人が入ってしまえば、その分の枠はその人が外に出ようとも、中で死亡しようとも、回復しない。
だから、スタンピード(亀裂崩壊)を極力起こさないように国も慎重になる。
いくらE級以下が利益の薄い亀裂とはいえ、落札するには最低でも数百万の保証金の預け入れと、正規のクランライセンスが必要。
底辺採掘者だった僕には貯金も、ライセンス持ち攻略者クランとの伝手もない。
そもそも、アクセスが許されるレベルの高級端末だって必要……。
僕なんて、そんな初っ端以前の問題からつまずいてしまう程度の存在。
今までの僕の職場、固定ダンジョン(深淵)の浅層にもモンスターはいるけれど、今のご時世、あそこは長期間潜って採掘を行う採掘者の仕事場。
D級相当位の階層までは、社会インフラの一部に組み込まれていて、監視カメラも多い。
人目につかずに魔装のテストだけでもしようと思っても難しいし、亀裂と違って即金で稼いでいけるような仕組みでもない。
「詰んでるよね。どうすればいいの……っ」
僕が頭を抱えた、その時だった。
『ブブッ……ブブッ、ブーーーッ』
手に持っていた罅だらけのスマホから、突然、耳障りなノイズが鳴り響いた。
バイブレーションにしては振動が変。
えっ? 壊れた? ただでさえお金に余裕がないのに。
驚いて液晶を見ると、ギルドの公式サイトを開いていたはずが、真っ暗な背景にショッキングピンクの文字が踊る、毒々しい画面へと書き換えられていた。
『――ねぇねぇ、そこの迷子の子猫ちゃん。インモラルな裏口なんてぇ、探してなぁい?』
画面の中央。
ピンク色をした、女の子の2Dアバターが浮かび上がった。
いかにもテンプレな『メスガキ』と言わんばかりの、ニヨニヨ笑いを浮かべた小柄な少女姿。
「だ、誰……!?」
情けなくも、驚きと軽い恐怖に取り落としたスマホから、小馬鹿にするみたいな小悪魔ボイスが一方的に語りかけてくる。
『明日の9時“めいどかふぇ・めいんく~ん・にゃんにゃん♡”……一人で来なさい♪ 満ちた器の“万華の魔装姫”ちゃん。それとも~、おXんXんを無くしちゃったお兄ちゃんはぁ、怖くてお家でおもらしすることしか、できないかにゃぁ~♡ にゃはっ』
プツン、と。
そんなメッセージを残してスマホは元の待受画面に戻った。
示された単語はどれも、知る人がほとんどいないはずのもの。
後に残されたのは早鐘を打つ心臓の音と、ほんのり湿り気を感じる――下着。
もうやだぁ。




