父さんの正論と、令嬢の沈黙
アルフォードが、飲んでいた紅茶を思いきり吹き出した。
「げほっ……兄上が?」
慌てて布を取り、口元と服にこぼれた紅茶を拭う。まだ若い父の顔には、驚きと戸惑いがそのまま表れていた。
「はい!」
ライオネルも息を整える間もなく答える。
「誰との婚約を?」
「エレノア公爵令嬢との婚約です!」
アルフォードの手が止まった。
「えっ……何で?」
「それを私が聞きたいのです!」
ルークは寝椅子に座ったまま、2人を見比べた。
父はこの騒ぎを予想していなかったらしい。濡れた服を拭くことも忘れ、布を握ったまま固まっている。
その横で、ルークの目の前に文字が浮かんだ。
《第2の失敗まで――残り2日》
《今回の失敗条件》
《アルフォード・レイフォード》
《王宮内支持者の7割を喪失》
ルークの眉が寄る。
「婚約破棄そのものが、失敗じゃないんだ……」
小さな呟きに、アルフォードがすぐ反応した。
「何か見えるのか?」
「うん」
「今回は何が起きる?」
「王太子の婚約破棄で……」
「それは今聞いた」
「違う、父さんがどうなるかって話」
「だから、人前ではアルフォード様だろ」
「今はいいでしょ!」
ルークは寝椅子から降り、父の前へ歩いていった。
「父さんは、この件で王宮の味方をほとんど失う」
アルフォードの表情が引き締まる。
「ほとんど?」
「7割」
「ずいぶん具体的だな」
「スキルにそう出てる」
そばで聞いていたライオネルも、険しい顔になった。
「支持者の7割を失う……。それが事実なら、王位継承争いから事実上脱落します」
アルフォードは少し考え、それから肩をすくめた。
「俺、別に王位は欲しくないけど」
「そういう発言を堂々となさるから、周囲が困るのです!」
ライオネルが即座に言い返す。
「でも、欲しくないものを欲しいと言うのも変だろ」
「建前という言葉をご存じですか?」
「知っているが、あまり好きじゃない」
ライオネルは額を押さえた。
ルークは2人を交互に見て、小さく息を吐く。
「何となく、失敗する理由が見えてきた気がする」
「早くないか?」
「父さん、思ったことを全部言うでしょ」
「全部ではないぞ」
「8割くらい?」
アルフォードは少し考えた。
「……6割」
「それでも多いよ!」
父が気まずそうに目を逸らしたところで、廊下から慌ただしい足音が近づいてきた。
扉が叩かれる。
「アルフォード殿下!」
扉越しの声は、明らかに急いでいた。
「王太子殿下がお呼びです!」
ルーク、アルフォード、ライオネルが顔を見合わせる。
「早いな」
「行かないで」
「まだ何もしてないぞ!」
「でも絶対、何か言う!」
「信用がなさすぎないか!?」
「未来の実績があるから!」
アルフォードは胸を押さえ、傷ついた顔を作った。
「未来の俺、ずいぶん足を引っ張ってるな……」
とはいえ、王太子からの呼び出しを無視するわけにもいかない。
アルフォードは紅茶の染みがついた上着を脱ぎ、別のものへ着替えた。襟元を整えながら、ルークへ目を向ける。
「お前はどうする?」
「行く」
「即答だな」
「今回は、最初から一緒にいたほうがいい」
「正体はどう説明する?」
「遠い親戚」
「またそれでいくのか」
「前回、それで通ったから」
アルフォードが疑わしそうに眉を上げる。
「通ってたか?」
「誰も追及しなかった」
「周りが忙しかっただけだろ、それ」
ライオネルが扉へ向かいながら、深く息を吐いた。
「どう説明なさるにせよ、王太子殿下をお待たせしないでください」
※※※
王城の廊下を歩きながら、ルークは周囲を注意深く見ていた。
すれ違った侍女たちは、アルフォードたちが通り過ぎると互いに顔を寄せ、声を潜めている。騎士たちも落ち着かない様子で、何度も周囲へ目を向けていた。
婚約破棄の話は、すでに王宮へ広がり始めているらしい。
「そんなに大ごとなの?」
ルークが声を落とす。
「大ごとです」
ライオネルも小声で答えた。
「王太子殿下とエレノア公爵令嬢の婚約は、王家と4大公爵家の均衡を保つうえで重要なものです」
「破棄したら?」
「公爵家が王家から離れる可能性があります」
「じゃあ、国が割れる?」
「最悪の場合は」
ルークの頬が引きつった。
「重いな……!」
誰かが恋人と別れるだけの話ではなかった。
ルークは隣を歩く父を見上げる。
「父さん、これを止めようとしたんだよね」
アルフォードは周囲を見てから、声を潜めた。
「未来では、そうらしいな」
「どうやって?」
「未来の俺に聞け」
「その未来の父さんが、説明してくれなかったんだよ!」
「本当に不便だな、未来の俺」
「今の父さんも、似たようなものだよ!」
言い合っているうちに、王太子の執務室へ到着した。
取り次ぎのあと、扉が開く。
室内には3人がいた。
机の前に立っているのは、金髪の青年だった。整った顔立ちに、白と青を基調とした上等な服。アルフォードより少し年上に見える。
父がわずかに姿勢を正した。
「兄上」
王位継承順位第1位、王太子レオン。
その隣には、17、18歳ほどの淡い銀髪の少女が立っていた。
青い瞳に、まっすぐ伸びた背筋。騒ぎの中心にいるとは思えないほど、静かな様子だった。
ルークはアルフォードへ顔を寄せる。
「エレノア公爵令嬢?」
「ああ」
さらに、レオンの少し後ろには桃色の髪の少女がいた。
控えめな装いで、両手を体の前で重ねている。エレノアとは違い、緊張したように目を伏せていた。
「……あっちは誰?」
「知らん」
「父さんも知らないの?」
「初めて見る」
ライオネルが声を落として補足した。
「おそらく、最近王宮に入った男爵令嬢です」
「何で王太子の部屋にいるの?」
「それを、これから伺うのでしょう」
ルークは3人の立ち位置を見比べた。
レオンとエレノアの間には距離がある。一方、桃色の髪の少女は、レオンのすぐ後ろにいた。
嫌な予感がした。
「来たか、アルフォード」
レオンが父へ目を向ける。
「兄上、話は聞きました」
「なら早い」
レオンは短く息を吐き、エレノアを見た。
「私は、エレノアとの婚約を破棄する」
ルークは反射的に、アルフォードの上着をつかんだ。
「父さん」
「分かってる」
「まだ何も言わないで」
「分かってるって」
「絶対?」
アルフォードは一瞬黙った。
「……たぶん」
「不安!」
レオンの眉が寄る。
「さっきから、その子は誰だ?」
「遠い親戚です」
アルフォードが平然と答える横で、ライオネルが小さく呟いた。
「また、その説明ですか……」
レオンはそれ以上追及せず、話を戻した。
アルフォードも兄へ向き直る。
「理由を聞いても?」
「エレノアは、王太子妃にふさわしくない」
ルークはエレノアを見た。
彼女は驚かなかった。背筋を伸ばしたまま、レオンの言葉を受け止めている。
「どのような点が?」
「彼女は冷淡だ。民への慈しみもなく、身分の低い者を見下している」
レオンの後ろで、桃色の髪の少女がさらに俯いた。
「特に、リナへ何度も嫌がらせをした」
アルフォードが少女へ視線を向け、それから兄へ問いかける。
「例えば?」
「階段から突き落とそうとした」
「それを見た者は?」
「リナ本人がそう言っている」
「ほかには?」
「茶会で衣服を汚した」
「そのとき、周りにいた者には確認しましたか?」
「リナが、エレノアにやられたと――」
アルフォードの表情が険しくなった。
「兄上、本人の証言だけですか?」
ルークが上着を引っ張る。
「言い方!」
「まだ普通だろ!」
「今のところは!」
レオンの眉がぴくりと動いた。
「リナが嘘をついていると言いたいのか?」
「そうは言っていません。ただ、婚約を破棄するなら、事実の確認が必要でしょう」
「私は確認した」
「どのように?」
「リナに聞いた」
アルフォードは間を置かずに返した。
「それでは、ほかの証言を確かめたことにはなりません」
「父さん!」
「いや、これは言う!」
ライオネルが目を閉じた。
「始まった……」
室内の空気が張り詰める。
レオンは机の端へ手を置き、弟を睨んだ。
「お前は私より、エレノアを信じるのか」
「そういう話ではありません」
「では何だ」
「国に関わる婚約を破棄する以上、個人の気持ちだけで決めてよいのかという話です」
「感情だけで決めたのではない!」
「なら、判断の根拠を示してください」
2人の声が強くなっていく。
その間に、静かな声が入った。
「アルフォード殿下」
それまで黙っていたエレノアが、初めて口を開いた。
「もう結構です」
「エレノア嬢?」
「レオン殿下がお決めになったことですから」
エレノアは乱れのない所作で、レオンへ一礼した。
「婚約破棄、承知いたしました」
「ちょっと待って!」
ルークが思わず声を上げた。
全員の視線が集まる。
ルーク自身も、慌てて口を押さえた。
「あ……」
レオンが怪訝な顔をする。
「その子は、さっきから何なのだ」
「遠い親戚です」
「それは聞いた!」
アルフォードはルークへ身を寄せ、声を潜めた。
「どうした?」
「エレノアさんの様子、変だよ」
「何が?」
「婚約を破棄されるって聞いても、全然驚いてない。それに、理由を聞こうともしない」
アルフォードもエレノアを見る。
彼女は変わらず静かに立っていた。怒ることも、弁明することもない。
覚悟していたから落ち着いているのか。それとも、早くこの話を終わらせたいのか。
ルークには分からなかった。けれど、ただ突然の宣告に耐えているようには見えない。
「エレノア嬢」
アルフォードが呼びかけた。
「何でしょう」
「今日、こうなることを予想していましたか?」
エレノアの指先が、わずかに動いた。
「……なぜ、そのようなことを?」
「嫌がらせをしたという話にも、婚約破棄にも、何もお尋ねにならないので」
彼女の視線が、一瞬だけレオンへ向く。
すぐに戻ったが、ルークはその動きを見逃さなかった。
そのとき、目の前に文字が浮かぶ。
《第2の失敗に変化が発生》
《アルフォード・レイフォード》
《王宮内の支持者――12%減少》
ルークの目が大きく開いた。
「もう味方が減ってる……!」
「何が?」
アルフォードが顔を寄せる。
「父さんの支持者! 12%減ってる!」
「俺、まだそんなに何もしてないぞ!?」
「兄上の判断を否定したでしょ!」
「それだけで12%も離れるのか!?」
ライオネルが、2人にだけ聞こえる声で言った。
「王太子殿下の判断を正面から否定したという話が広まれば、その程度は減るでしょう」
「この部屋で話しただけだぞ」
「王宮では、部屋の中の話が部屋の中で終わるとは限りません」
「怖い場所だな……」
ルークは頭を抱えかけ、それから顔を上げた。
真正面から王太子を止めようとする父。険悪になった室内。そして、減り始めた支持者。
このまま父が言い続ければ、レオンは意地になり、周囲もどちらにつくかを迫られる。
それでは、未来と同じだ。
「父さん」
「何だ」
「婚約破棄を止めるの、いったんやめよう」
アルフォードが目を丸くする。
「え?」
「でも、このままだと――」
「前と同じだよ。何が原因なのか、まだ分かってない」
ルークは真剣な顔で父を見た。
「まず調べよう」
「何を?」
「エレノアさんが、どうしてこんなにすぐ受け入れたのか。嫌がらせの話が本当なのか。それが分かってからでも、止める話はできるでしょ」
ルークがエレノアへ目を向けると、彼女の目がわずかに見開かれていた。
すぐに平静へ戻ったが、今度はアルフォードも気づいた。
「……確かに、何かありそうだな」
父は顎に手を当て、少し考えた。
それからレオンへ向き直る。
「兄上」
「何だ」
「婚約破棄を決めたお気持ちは分かりました。今ここで、撤回を求めることはしません」
レオンが警戒するように弟を見る。
「ただし、正式な発表を2日だけ待っていただけませんか」
「なぜだ」
「確認したいことがあります」
「まだリナを疑うのか?」
「誰かを疑うためではありません。婚約を破棄するなら、王家も公爵家も、その理由を説明しなければならないでしょう」
アルフォードは、先ほどより声を抑えて続けた。
「エレノア嬢が本当に嫌がらせをしたのか。周囲にいた者の話を聞きます。それから、なぜご本人が、婚約破棄を受け入れる用意をしていたのかも」
室内が静まった。
レオンがエレノアを見る。リナも、伏せていた顔を上げた。
エレノアの唇がわずかに動く。
「……余計なことを」
ごく小さな声だった。
近くにいたルークが、思わず顔を向ける。
「今、何て?」
「何でもありません」
エレノアは即座に答えた。
けれど、重ねた指先には先ほどより力が入っている。
ルークは彼女から目を離せなかった。
婚約破棄を止められることを、喜んでいない。
むしろ、調べられることを避けたがっている。
レオンはしばらく黙ったあと、アルフォードへ視線を戻した。
「2日だ。それ以上は待たない」
「ありがとうございます」
「その間に何も示せなければ、これ以上口を出すな」
アルフォードは答えかけたが、ルークに上着を引かれた。
一度息を吐き、短く頷く。
「まず、調べます」
ルークの目の前で、文字が更新された。
《第2の失敗まで――残り1日23時間》
話している間にも、時間は過ぎている。
けれど、ようやく調べるための猶予ができた。
執務室を辞し、扉が閉まったところで、ルークは父を見上げた。
「父さん」
「何だ?」
「今回は、喧嘩しないでね」
アルフォードが不服そうに眉を寄せる。
「俺がいつ喧嘩した」
「今」
「議論だ」
「支持者が12%減ってる」
父の勢いが止まった。
「……反省します」
「本当に?」
「努力する」
「不安だなあ」
ルークはため息をついた。
それでも、口元には少しだけ笑みが戻っていた。
婚約破棄そのものを止める前に、その裏にある理由を探る。
レオンが信じているリナの証言。そして、何も弁明せず、婚約破棄を受け入れようとするエレノア。
まずは、彼女の話を聞かなければならない。
《第2の失敗まで――残り1日23時間》
残された時間は、静かに減り続けていた。




