高貴なレディの秘密の記憶
「お前、最初に出会ったときはガリガリでボロボロのドロドロだったんだよなぁ」
休日の午後。
ソファの上でくつろぐ人間姿のコハクを見ながら、ふと懐かしい思い出を口にした。
「……ッ! 過ぎた過去のハナシをほじくり返さないでちょうだい!」
コハクは真っ赤な顔で俺を睨みつけると、プイッと横を向いて腕を組んだ。
「だいたいね! 私は最初から可憐で高貴な美少女猫だったの! 泥なんて……あれは、ちょっとした演出よ!」
「強がり言っても無駄だって。あの時は本当に酷かったんだから」
◇
一年前の冬。冷たい雨が降り頻る夜だった。
アパートの近くの路地裏、ボロボロの段ボールの中でガタガタと震えていた一匹の茶トラ。
泥と煤で毛並みは固まり、骨が浮き出るほどガリガリに痩せ細り、目も開けられないほど弱っていた。
見かねた俺が上着で包み込んで家に連れ帰り、ぬるま湯を張った風呂場で優しく泥を洗い流してやったのが、俺たちの出会いだった。
「それが今じゃ……あのお腹だろう。すっかり油断してたるんでるぞ」
「た、たるんでないわよ! これは合理的な設計なの!」
「合理的?」
「そうよ。ルーズスキンっていう、高貴な猫だけに許された気品の証なんだから!!」
「はは、まあ、健康になって良かったよ」
心からそう呟くと、コハクの動きがピタリと止まった。
彼女は少し照れくさそうに視線を泳がせ、シャツの裾をぎゅっと握りしめる。
「……ふん。あなたが毎日ちゃんとご飯を献上するからでしょ。……感謝しなさいよね」
素直じゃない言葉とは裏腹に、彼女の耳元はほんのり桜色に染まっていた。
◇
コハクがこれほどまでに「自分は美しく、高貴でいなきゃいけない」と背伸びをするのは、きっとあの日々があるからだ。
自分が美しく誇らしい存在でいれば、飼い主にとって自慢の猫でいられる。
そうすれば、あの暗く冷たい場所に戻されずに済む。
プライドが高く強がりな態度の裏には、「この人に捨てられたら……ここで生きていけなければ……自分は終わりだ」という、あの日刻まれた消えないトラウマと、底知れない感謝が隠れているのだと思う。
だからこそ彼女は、人間の姿になっても俺の匂いに執着し、膝の上に乗りたがり、隙があればすり寄ってくるんだろうな。
あたたかな匂いと温もりが、彼女にとって世界で一番安全な場所なのだから。
そして──猫としては実に珍しいことに、コハクは大のお風呂好きだった。
トラウマだった泥を温かい湯で洗い流してもらい、凍えた体を優しく抱きしめられたあの夜の記憶が、彼女にとって「お風呂=幸せを感じる特別な場所」になっているらしい。
◇
そんなある日の夜。
俺が一日の疲れを癒そうと風呂場に向かい、服を脱いで湯船に浸かろうとした、その時だった。
ガララッと、勢いよく風呂場のドアが開いた。
「主! 私も一緒に入るわ!」
「ぶっ!?!? ななな、何考えてんだお前!!」
俺は慌ててお湯の中に体を沈め叫んだ。
「一緒気に入るなんてダメに決まってんだろ! 出ていけ!」
「な、なんでよ! 昔は洗ってくれたじゃない!」
コハクは不満げに眉をひそめ、仁王立ちで抗議の声をあげた。
「昔って、それはお前がボロボロの猫だった頃の話だろ! 今は人間の姿だぞ!? 24歳の自称美少女が男と一緒にお風呂に入るのは、社会的にアウトなんだよ!」
「関係ないわよ! 人間になろうが猫になろうが、私はあなたのコハクなのよ!? 昔みたいに、優しくお湯をかけて撫でてくれればいいじゃない!」
「そういう問題じゃないんだよ理性が死ぬわ!!」
必死に拒絶する俺を見て、コハクの表情が次第に曇っていった。
ぷんすかと怒っていたはずの顔から余裕が消え、琥珀色の瞳が不安そうに揺れ始める。
「……嫌なの?」
「え……?」
「私と一緒に入るのが、嫌なの……? もう、綺麗じゃないから……?」
ぽつりと漏らされた声は、小さく震えていた。
コハクは胸元のタオルを強く握りしめ、ポロポロと涙をこぼしそうな目で見つめてくる。
「また……汚れちゃったかしら。私が可愛くないから、主は私を避けるの……?」
その瞬間に悟った。
彼女はまた、あの日々に引き戻されているのだ。
泥まみれで、誰にも愛されず、冷たい雨の中で死にかけていたあの頃の自分に。
拒絶されたと感じた瞬間、また捨てられるのではないかという強い恐怖が、彼女の小さな心を蝕んでいるのだと直感した。
「……ちがう」
俺はため息をつき、お湯から上がってタオルを腰に巻くと、風呂場の床にしゃがみ込んだ。
コハクの視線と同じ高さになり、彼女の目を真っ直ぐ見つめる。
「嫌なわけないだろ。お前はいつでも、世界で一番綺麗で、自慢の猫だよ」
コハクは「あ……」と声を漏らし、涙目になりながら見つめ返してきた。
「じゃあ……なんで……?」
「お前が大事だからだよ。人間の姿のときにお風呂に一緒に入ったら、俺の理性が保てなくなって、お前を傷つけちゃうかもしれないんだ」
「傷つく……? 主が私を……?」
「そうだよ。だから、順番だ」
俺は優しく微笑んだ。
「どうしても一緒にお風呂に入りたいなら……猫の姿に戻りな」
俺の言葉に、コハクはハッとしたように目を見開いた。
そして、自分が勘違いをしていたこと、俺が自分を蔑ろにしたのではなく、大切にしようとしてくれていたのだと理解したらしい。
みるみるうちに顔が真っ赤になり、恥ずかしそうに視線を泳がせる。
「う……うぅ……! ばか主! 紛らわしい言い方しないでちょうだい!」
「お前が早とちりしたんだろ」
「もう知らないんだからっ! 早く触ってよ」
ポンッ!
軽い破裂音と一瞬の白い煙。
次の瞬間、ひらりと落ちたタオルの上から、ひょっこりと茶トラの頭が飛び出してきた。
「ふにゃ〜〜〜〜っ!!」
猫に戻ったコハクは、照れくささを誤魔化すように風呂場の床をタタタッと駆け抜けると、そのまま躊躇なく湯船の縁へジャンプした。
そして、ちょこんと縁に座り、しっぽをパタパタと振りながら俺を見下ろしてくる。
『早くお風呂に入りなさいよ! 早くアタシを洗ってよ!』と言いたげな、ドヤ顔の茶トラ猫だ。
「はいはい、分かったよ」
俺がお湯に戻り、手桶でぬるま湯を掬って優しく背中にかけてやると、コハクは目を細めて「フシュ〜……」と幸せそうに息を吐いた。
「ゴロゴロ……ゴロゴロ……」
湯気の中で鳴り響く、愛おしい喉の音。
温かいお湯に浸かりながら、コハクは俺の膝の上に前足を乗せ、安心しきった様子で目を閉じる。
「ずっと……ここにいていいんだからな」
頭を撫でながら静かに囁くと、コハクは「にゃん」と小さく答えるように鳴き、俺の手のひらにすり寄ってきた。
どんなに強がっても、どんなに姿が変わっても。
彼女が安心して帰れる場所は、いつだってこの温もりの中だけなのだ。




