疲れた夜の特効薬
「はぁ……マジでやってらんねえ……」
深夜の住宅街、街灯の冷たい光に照らされた夜道を、俺は重い足取りで歩いていた。
今日の職場は最悪の一言に尽きた。
理不尽な理由で上司からネチネチと一時間以上も怒鳴られ、挙げ句の果てには「教育の一環だ」などと意味不明な理屈をこねられ、時間ばかりかかる単純作業の仕事を丸投げされたのだ。
入社三年目。
いつまで俺は便利屋のような扱いを受けなければいけないのだろうか。
胃のあたりがズキズキと痛み、頭の中には泥のような疲労感と徒労感が溜まっていた。
「帰ったら速攻で風呂入って寝よ……」
愚痴を溢しながらアパートの階段を上がり、使い古された鍵をドアに差し込む。
カチャンと寂しい金属音が響き、ドアを開けると、玄関の灯りの中で彼女が待っていた。
我が家の愛猫であり、時々人間の姿になる自称・24歳美少女のコハクだ。
ダボッとしたオーバーサイズTシャツの裾からは、柔らかそうな肉感のある太ももがのぞいていた。
相変わらず息をのむような美貌だが、その顔にはあからさまな心配の色が浮かんでいた。
「おかえり」
「……ただいま」
「どうしたの?」
「何でもない」
「嘘」
「……」
返事に詰まる俺の顔を、コハクは琥珀色の瞳でじっと見つめてきた。
誤魔化しが効かないことは目を見ればわかる。
俺がどれだけ強がっても、コハクには俺の些細な表情の変化や、まとっている空気の重さがすべてお見通しなのだ。
沈黙が落ちる玄関。
コハクはふんす、と小さく鼻を鳴らすと、少しだけ誇らしげに胸を張った。
「……今日は私の匂いを嗅ぎなさい」
「またそれか」
「いいから」
呆れる俺の腕を強引に引っ張り、コハクは自分の頭を俺の胸元へと寄せてくる。
押し切られる形で、俺は彼女の柔らかく豊かな茶髪にそっと顔を近づけた。
ふわりと鼻腔をくすぐるのは、どこか日向の温もりを感じさせる、甘くて優しいコハクの匂い。
仕事場でこびりついた不快なストレスや、冷たい空気で荒んでいた心が、その匂いを吸い込むたびにじんわりと解けていくのが分かった。
コハクは俺の背中に手を回しながら、そっと呟く。
「……どう?」
「……落ち着く」
「でしょう?」
ふふん、と満足そうに笑う彼女の温もりを感じながら、俺はふと懐かしい記憶を思い出していた。
「なんか、昔からこうだったな」
「……」
「仕事から帰ったら、お前が玄関まで迎えに来てくれて」
「……うん」
「それだけで結構、疲れが取れてたんだな」
理不尽な残業でどんなに精神が削られても、ドアを開ければ足元にすり寄ってくる小さな茶トラの温もりがあった。
無条件で自分を頼り、愛してくれる存在がそこにいるだけで、俺は明日も頑張ろうと思えていたのだ。
俺の言葉を聞いたコハクは、しばらく何も言わずにじっと俺を見上げていた。
そして、どこか愛おしそうな、それでいて少しだけ悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「……じゃあ、今日も迎えてあげる」
「もう迎えてくれただろ」
「違うわ」
「?」
首をかしげる俺に向かって、コハクは「ふふっ」と可愛らしく微笑むと、そっと手を伸ばしてきた。
「猫として」
そう言って、彼女は俺の手をぎゅっと握ろうとする。
「あ、待て、お前触ったら──」
制止の声をかける間もなく、彼女の柔らかい手のひらが俺の手に触れた。
ポンッ。
軽い破裂音と、一瞬だけ広がった白い煙。
次の瞬間、手にあった人間の温もりは消え去り、俺の膝の上にドカッと落ちてきたのは、ずっしりと心地よい重みの茶トラ猫だった。
「……にゃあ」
膝の上で丸くなったコハクは、当然のように俺の腹に顎を乗せ、喉をゴロゴロと鳴らし始めた。
さっきまで胸を張っていた24歳の美少女はどこへやら、そこには完璧な「いつもの愛猫」が収まっている。
俺は膝の上の愛猫を見下ろし、呆れたように息を吐いた。
「……お前、これがやりたかっただけだろ」
「にゃ」
「否定しろよ」
「にゃ〜ん」と呑気な声を返し、コハクは俺の手のひらにぐいぐいと頭を押し付けてきた。
『早く撫でなさい』と言わんばかりの図々しい催促だ。
言葉は通じなくなっても、その瞳には「お疲れ様」という温かい響きがはっきりと宿っていた。
人間の姿で慰めるのは少し恥ずかしいから、猫の姿になって俺に思う存分甘えさせてくれようとしたのだろう。
素直じゃない彼女なりの、精いっぱいの優しさだ。
「……たく、ホント勝手なやつ」
苦笑しながら柔らかい毛並みをゆっくりと撫で上げてやると、コハクは目を細めて気持ち良さそうに「フシュ〜……」と息を漏らした。
手に伝わる、愛おしい命の温もりとトクトクという小さな心音。
上司の怒声も、押し付けられた残業も、すべてがどうでもよくなるくらい、穏やかな時間が部屋を満たしていく。
「ただいま、コハク」
小さく呟いてもう一度深呼吸をすると、胸の奥に残っていた泥のような疲れは、いつの間にか綺麗に消えてなくなっていた。




