猫の噂と、少しだけ元気になる方法
秋の風が少しだけ冷たくなり始めた、十月の夕暮れ時。
仕事帰りの俺とコハクは、アパートの近くにある小さな公園の横を通りかかっていた。
ブランコや砂場があるだけの素朴な公園だが、いつの頃からか、その一角のベンチに毎日決まって座っている人物がいた。
ビシッとした黒のスーツを着た、三十くらいの女性だ。
膝の上にビジネスバッグを置き、スマホを見るでもなく、ただぼんやりと乾いた砂場を眺めている。
背中が少し丸まっていて、膝の上のバッグをただ抱えているだけだった。
夕日がその影を細長く伸ばす。
並んで歩いていたコハクが、不意に立ち止まり公園を見つめた。
「どうした?」
「最近、あの人毎日ひとりで座ってるの」
「……どうかしたのか?」
俺はベンチの女性にちらりと視線を向け、首を傾げた。
ただ疲れて休んでいるだけかもしれないし、誰かを待っているだけかもしれない。
「ううん。でもね、猫ってそういうの気になるのよ」
コハクは真剣な眼差しで女性を見つめていた。
元野良猫のコハクには、人間の言葉以上に、その人が纏う「空気の重さ」のようなものが肌で理解できるらしい。
コハクはその日の夜、猫の姿になり、いつもの地域猫たちと猫集会をしていた。
「ウニュウニュ(毎日あのベンチに座ってる人間、知ってるでしょ)」
「ニャァー(知ってる。撫で方が下手な人間)」
「ニャ、ニャニャン(そう、その人。明日から少しだけ、近くにいてあげて)」
「ニャゥ(面倒くさいな)」
「ウニャ(撫で方が下手そうだから教育してやる)」
「フニャァ(あの人間、動かないから風よけにちょうどいい)」
「ニャォン(ため息ばかりついてるから、頭突きして邪魔してやるか)」
「ニャンニャニャ(グーはそういって、また靴に頭をこすりつけるんでしょ)」
何が決まった訳ではない。
いつもの猫集会だった。
◇
それからの変化は劇的だった。
翌日の夕方、俺が買い出しの帰りに公園を通りかかると、いつものベンチの周りが妙に賑やかになっていた。
まず、黒猫のクロが女性の足元にちょこんと座り込み、尻尾をパタンパタンと振っている。
三毛は、ベンチの下で心地よさそうに丸くなって目を細めていた。
オジジは、少し離れた植え込みのフチから、じっと静かに彼女を見守っている。
さらには、グーが、女性のパンプスに容赦なく自分の頭を「すり〜」と擦り付けていた。
女性は突然の事態に驚いた様子で「……昔、実家にもいたな」とぽつりと呟いた。
そして、足を引くことも、追い払うこともせず、困惑しながらグーの頭をそっと指先で撫でた。
数日もすると、その光景は公園の「日常」になった。
女性はベンチに座ると、カバンから小さな猫用ブラシを取り出すようになった。
スーツの膝に猫毛がつくのも気にせず、集まってきた猫たちを順番に撫でてやる。
「今日もみんな、いるかな……」
遠目からでもわかるくらい、彼女の表情は柔らかくなっていた。
固まっていた頬が、猫たちと触れ合う瞬間だけは、ほんの少しだけ緩んで笑っていた。
◇
「コハク、猫たちはあの人を元気づけようとしたのか?」
帰り道、俺が隣を歩くコハクに尋ねた。
コハクはそっぽを向き、口をへの字に曲げた。
「わかんない。猫は、好きなところで寝てるだけよ」
ツンとすました顔をして歩を進める。
だが、その足取りはどこか誇らしげで、いつもより少しだけ軽やかだった。
「……でも、人間も一人でいるより、誰かと一緒の方がいいでしょ」
前を向いたまま、小さな声でコハクが付け加えた。
その女性がどんな悩みを抱えているのか、俺たちにはわからない。
人間社会の複雑なトラブルを、猫たちが解決してあげることなんて到底できない。
けれど──
「今日、家に帰る前に、もう少しここにいてもいいかな」
疲れ果てた一日の終わりに、そう思える居場所がひとつ増えたこと。
温かくて柔らかい毛並みに触れて「また明日も頑張ろう」とほんの少しだけ前を向けること。
猫たちが提供したのは、ただそれだけの、けれどとても優しい時間だった。
◇
今日も夕暮れの公園で、女性がベンチに座っていた。
膝の上にはクロが乗り、足元にはオジジとグーが丸くなっている。
女性はクロの背中を優しく撫でながら、スマホに短いメッセージを打ち込んだ。
『今日、少し遅くなるけど、そっち帰るね』
送信してから、彼女は小さく息を吐いた。
それは泣きそうな息ではなく、少しだけ肩の力が抜けた人の息だった。
その呟きは秋の風に乗って、遠くの木陰で見守っていた俺たちのところまで届いた。
コハクが、フッと息を漏らすように小さく笑った。
「よかった」
「何が?」
俺が尋ねると、コハクはすぐにいつもの生意気な表情に戻り、ツンと胸を張った。
「別に。猫には関係ないことだから」
そう言いながらコハクは、公園のベンチをもう一度だけ振り返った。
その横顔は、少しだけ安心した猫の顔をしていた。
夕日が落ち、公園の街灯がぽつりと灯る。
「……主」
「ん?」
「明日、あの人のところに行くとき、ちゅーる持っていっていい?」
「人間はちゅーる食わないぞ」
「えっ、あんなに美味しいのに!? じゃあアタシが食べるしかないわね!」
コハクはお腹を空かせた顔で叫ぶと、俺の手をグイッと引っ張って家路を急いだ。
夕暮れの公園では、今日も何匹もの猫たちがベンチの周りに集まっていた。
明日もきっと、あの人はここに来る。
そして猫たちは、たぶん何も考えずに、またその隣で昼寝をするのだろう。




