執事の矜持と、折れ耳猫の秘密
「おや、主様。本日は少々風が冷え込みますゆえ、羽織るものをお召しになって正解でしたね」
秋晴れに恵まれたお昼前の、紅葉で名高い観光地。
いつも通りの完璧な仕立てのスリーピーススーツを身にまとい、背筋を伸ばして歩くアーサーの隣には、上品な淡い紫色のカーディガンを羽織った高齢のご婦人が寄り添っていた。
道行く人々が思わず振り返るほど、絵になる二人だ。
アーサーは歩幅をご婦人の歩調に完璧に合わせ、段差があればそっと手を差し伸べ、まるで英国貴族の執事のような洗練された立ち振る舞いでエスコートしている。
たまたま観光に来ていた俺とコハクは、その光景を目撃していた。
「……ねえ主。あそこにいるの、アーサーよね?」
ダークトーンで大人っぽく決めたコハクが、目を丸くして呟いた。
「ああ、アーサーだな……。なんだあの上品なおばあさんは。アーサーがあんなに甲斐甲斐しく気を使ってる相手なんて、初めて見たぞ」
「ふんっ、相変わらず気取っちゃって。どうせまたどこかの社長夫人でも買収しようとしてるんじゃないの?」
コハクがジト目で鼻を鳴らした、その時だった。
「いつもありがとうね、アーサーちゃん。本当に頼りになるわ」
ご婦人が嬉しそうに目を細め、感謝を込めてアーサーの腕にそっと手を添えた。
その瞬間──
ポンッ!
一瞬の白い煙とともに、高級スーツがフニャリと地面に崩れ落ちた。
「……え?」
俺とコハクの動きが完全に止まった。
スーツの襟元から、ぬるりと顔を出したのは──グレーの毛並みに、ちょこんと前に折れ曲がった耳を持つ、一匹の猫だった。
猫になったアーサーは、自身の小さな前足を見つめ、絶望的な表情で固まっている。
「あらあら、また興奮して猫に戻っちゃったの? でも大丈夫よ、アーサーちゃん」
ご婦人はまったく動じる様子もなく、優しく微笑むと、しゃがみ込んで慣れた手つきでアーサーを抱き上げた。
「……主、もしかしてあの人ってアーサーの飼い主?」
「……ああ、触れたらアーサーが猫になったから、多分そうだよな」
俺とコハクは、ご婦人とアーサーの元へと駆け寄った。
「あの……すみません」
「おや、どうされましたか?」
ご婦人は温和な笑顔で振り返った。
その腕の中では、折れ耳のグレー猫が「知らないやつらだ。私とは無関係だ。見るな、見るんじゃない……!」と言わんばかりに、両前足で必死に顔を覆って小さくなっている。
「アーサーの飼い主さん……ですよね?」
俺が尋ねると、ご婦人は嬉しそうに頷く。
「ええ、アーサーを御存知ですの」
「はい、アーサーには、最近、色々な形で、お世話になっております。……それで、一度、飼い主さんのお顔を拝見したいと思っていたんです」
「あらそうなの。この子とは、もう4年も一緒に暮らしているんです。数ヶ月前に突然『社会勉強をしてまいります!』なんて人間の姿になって時々外出するようになったのよ」
ご婦人はアーサーを優しい眼差しで見つめていた。
「最初は驚きましたけれどねえ。本人が『心配ありません、私は立派な紳士になってまいります』なんて言うものだから」
ゆっくりとした動きで、視線を上げて話し続ける。
「……でも、お散歩に付き合ってくれる優しい子なんですの」
「お、お散歩に……」
俺とコハクは思わずアーサーを見た。
あの「我が家は裕福な名門である」だの「下僕君」だのと偉そうにのたまい、自作のハイテク兵器でコハクをトラップに嵌めようとしていた高貴なるアーサー様が、飼い主の前ではただの『お散歩をお手伝いする孝行猫』だったとは。
コハクの目が、怪しく光り始めた。
「へぇ〜〜〜……? アーサーちゃん、ねぇ〜〜〜?」
コハクはニヤニヤと最高に意地の悪い笑みを浮かべアーサーに語りかける。
「社会勉強ねぇ? 我が家の名門の血筋がどうとか言ってたのはどこの誰だっけ? おばあちゃんに甘えたいだけの、ただの箱入りお坊ちゃん猫じゃないの!」
「フシャーッ!!(黙れ! 私の尊厳をこれ以上傷つけるな!)」
アーサーはご婦人の腕の中で耳を伏せて威嚇したが、ご婦人はそれを「実は甘えたい態度」と思ったようで、アーサーの耳の後ろを優しく撫でた。
「この耳ね、子猫の頃からこうなのよ。うちに来たばかりの頃は、怖がってずっと耳を伏せていたの。でも、慣れてからは少しずつ顔を上げるようになってね」
老婦人の眼差しは、どこまでも温かい。
「この子の耳、ちょっと変わっているでしょう? でも私はこの耳が大好きなのよ」
コハクがニヤニヤ顔でアーサーに近寄っていく。
「へー、アーサーちゃん。かわいいわね(はーと)」
アーサーはと言えば、ニヤニヤと覗き込んでくるコハクに猫パンチを食らわそうと小さな前足をブンブンと振っている。
「よしよし、遊びたいのね、アーサーちゃん。お知り合いの方? 可愛らしい女の子ね」
「ニャン……」
頭を優しく撫でられた瞬間、アーサーはうっとりと目を細め、喉をゴロゴロと鳴らし始めてしまった。
誇り高き精神も、身体の純粋な本能には抗えないらしい。
「ふふ、この子ね、普段はおすまししているけれど、本当はとっても寂しがり屋なのよ。私が一人暮らしで足腰が弱くなってからは、家の中でもずっと後ろをついてきてくれてねぇ」
ご婦人は愛おしそうにアーサーをぎゅっと抱きしめた。
「人間になっても、こうして私のことを気遣って様子を見に来てくれるの。本当に自慢の家族なんですのよ」
「……」
その言葉を聞いた瞬間、コハクのからかいの表情がスーッと消えた。
自分を誇り高く見せるために強がっていたアーサー。
けれど、彼がスーツを着て気取っていた本当の理由は、ただのプライドなどではなく「大切な飼い主を安心させるための、一人前の男としての背伸び」だったのだ。
コハクは少しだけバツの悪そうな顔をして、きまり悪そうにそっぽを向いた。
「……エスコートの手際は、完璧だったわ。……飼い主さんが、大好きなのね」
「あら、ありがとう」
ご婦人が微笑むと、少し離れた場所に停まっていた黒塗りの高級車の横から、黒服の男性が静かに歩み寄ってきた。
「奥様、そろそろお帰りの時間で御座います」
「ええ、分かったわ。……さて、それじゃあアーサーちゃん、おうちへ帰りましょうか。今日のお昼はあなたの大好きな最高級マグロの缶詰を開けてあげるわね」
「ニャ〜ン」
人間の言葉を完全に捨て、これ以上ないほど甘やかな声で鳴いたアーサーは、ご婦人の腕の中にすぽりと納まった。
黒塗りの車に乗り込み、遠ざかっていくご婦人と、車のリアウィンドウ越しに揺れる小さなグレーの折れ耳。
「……ねえ主」
「ん?」
「……今日の夕飯、アーサーの分も残しておいてあげようか」
「そうだな。今晩あいつ、ウチに来そうだしな。ツンツンしながらも『食事はあるのか』って言ってくるんじゃないか」
秋風が通り抜ける木漏れ日の中で、俺とコハクは顔を見合わせ、静かに歩き出した。
◇
そして、その日の夜。
アパートのドアがコンコンとノックされ、扉を開けると──そこにはいつもどおり完璧なスーツ姿に戻ったアーサーが立っていた。
「……本日の件、他言無用だ。破った場合、下僕君の会社に圧力を掛ける。いいなっ!!」
「はいはい」
「返事が軽い! 断じて他言無用だからな! コハクも分かっているな!?」
部屋の奥からコハクが「はいはい、アーサーちゃーん」と気のない声を返す。
「〜〜〜っ! ……それと」
アーサーは一瞬だけ気まずそうに視線を泳がせた。
「……夕食は、まだかね」
「最高級マグロの缶詰だっけ?」
俺がニヤリと笑うと、アーサーはぴくっと眉を跳ね上げた。
「……」
「うちにはないぞ。ああ、でも飼い主さんが開けてくれるって言ってたもんな」
「…………下僕君」
「ん?」
「その話も忘れたまえ」
「はいはい」
不機嫌そうにダイニングの椅子へドカリと座り込むアーサーの皿に、俺は温かいご飯を盛り付けてやるのだった。
「あの人が、フルコンタクトの空手を教えているのか」
「そんな訳あるかぁ!!」
アーサーは顔を真っ赤にして叫んだ。
「私の主が言ったのだ『外の世界は危ないから、身ひとつで自分を守れる技術を身につけなさい』とな」
「それで、あの異常な身体能力か」
「私の主を守るためだ!」
「……なるほど」
「ちなみにハイテク兵器の開発は完全に趣味だ!」
「そこは自分から言うんだな」




