猫のプライドと、昨日の覚悟
近所の空き地のすみ、古い木箱が「オジジ」の定位置だった。
名前の通り、この界隈で一番長く生きている猫で、強面のベテラン地域猫だ。
コハクも野良時代、ずいぶんと可愛がってもらったらしい。
そのオジジの調子がおかしくなったのは、肌寒い秋の夕方のことだった。
いつもの木箱の中で、ぐったりと丸くなったまま動かない。
呼びかけても耳をわずかにピクと動かすだけだった。
「コハク、オジジ……かなり具合悪そうじゃないか。一刻も早く動物病院に連れて行こう!」
俺は焦って、家にあったプラスチック製のキャリーバッグを抱えてきた。
だが、隣に立つコハクは、静かにオジジのそばにしゃがみ込んでいるだけだった。
その表情には、焦りもパニックもない。
ただ、静かにそこに寄り添っていた。
「コハク! 何してるんだよ、早く手伝ってくれ!」
「……主、いいの。オジジは、ここにいたいの」
「なにいってんだよ! 病院に行けば注射とか薬で良くなるかもしれないんだぞ!?」
俺はコハクの言葉を無視し、嫌がるオジジの体を無理やり抱き上げ、キャリーへと押し込もうとした。
だが、オジジは衰えた体力を振り絞るようにして暴れ、器用にキャリーの隙間から脱出すると、床に着地した。
「あっ、おい!」
着地の衝撃で、オジジの足元が大きくフラつく。
それでもオジジは、一歩、また一歩と、必死の足取りで元の木箱へ向かって歩き出した。
身体を重そうに揺らし、パニックになり何度も倒れそうになりながら、自分の定位置へと戻ろうとする。
「無茶するなよ! じっとしてろって!」
俺が再び手を伸ばし、オジジを捕まえようとした──その時。
コハクが、俺の腕を静かに掴んだ。
「……ちょっとまって」
コハクの声は低く、小さかった。
叫ぶでもなく、感情を荒立てるでもない。
その静けさが、かえって俺の動きを固まらせた。
「オジジは、どうしてもあそこにいたいって言ってるの」
コハクはまっすぐな目で俺を見つめた。
「あそこが、オジジの居場所だから」
コハクの言葉を受け止めきれず、俺は手を止めたまま息を飲んだ。
コハクの静かな語りによれば、オジジには昔、たくさんの仲間がいたらしい。
だが、仲間たちは一人、また一人と消えていった。
交通事故で姿を消した仲間もいた。
病気で動けなくなった仲間もいた。
寒さや飢えに耐えられず、いつの間にかいなくなった仲間もいた。
それでも、オジジだけはずっとあの場所に残っていた。
「……仲間がいなくなっても、オジジはずっとあそこにいたんだって」
他の場所に逃げることもせず、誰かに媚びることもなく。
過酷な野良の環境の中で、自然に、気高く生きることこそが、オジジが自ら選んだ「猫生」なのだと。
自分の居場所を離れないことこそが、オジジの譲れない誇りなのだと、コハクの静かな声が伝えていた。
「今はもうちょっとまって、パニックになっているオジジを、怖がらせたくないだけ」
俺は、完全に納得できたわけではなかった。
人間から見れば、治療を受けさせるのが優しさかもしれない。
だが、オジジの必死な足取りと、コハクの抑えた声の重みに、俺は伸ばしかけた手をゆっくりと引っ込めた。
「分かった。今は無理に押し込まない。でも、このままにはしない。先生にも電話して、どうすればいいか聞く」
俺は携帯を取り出し、近くの動物病院へ連絡しどうしたらよいかを相談した。
「オジジ、とりあえず今日は、暖かくして安静にするようにと先生がいっていたから、今日はゆっくり寝ていろ」
俺は地面にしゃがみ込み、オジジの背中を優しく一度だけ撫でた。
「でも、状態が悪くなるようなら、すぐ救急病院に連れて来るように言われているからな」
そうして俺たちは、オジジを無理に動かさず、見守ることにした。
オジジはいつもの木箱の中で丸くなり、静かに目を閉じた。
その夜、俺は気になって何度も窓の外を確認し、暗闇の中に丸い影があるのを見ては胸を痛めた。
命の尊厳や、野生で生きる厳しさについて考え、ほとんど眠れなかった。
◇
そして、翌朝。
居ても立っても居られず、俺は早朝から空き地へと走った。
「……あれ?」
目の前の光景に、俺は言葉を失った。
オジジが、何事もなかったかのように、昨日俺たちが置いていった置き餌をカリカリと勢いよく食べていたのだ。
毛並みにはツヤすら戻っている。
「元気になってる……!?」
コハクはというと、オジジに真面目に話を聞いてくれた。
「昨日食べた魚を吐いたら、すっきりしたみたい」
「……腐った魚だったのか?」
「腐ってたんじゃない? オジジが『あんなまずい魚は初めてだ』って言ってたもの」
俺はその場にガクッとへたり込んだ。
昨日、あれほど覚悟を決めたのは何だったのか。
命の尊厳だとか、猫としての誇りだとか、涙ぐましい葛藤をしていた俺たちをよそに、オジジは満足そうに「フニャ」と鳴き、前脚で顔を洗い始めている。
「……まあ、元気になったならいいか」
力が抜けた俺が呟くと、コハクは腕を組んで、ジト目でオジジを見下ろした。
「そうね。でも、今日は病院に行くわよ」
コハクは仁王立ちになり、オジジに向かって指を突きつけた。
「昨日はパニックになってたから諦めたけど、今日は大丈夫なんでしょ? 昨日あれだけぐったりしていたんだから、元気そうでも油断はできないわ。動物病院で確認してもらわないとね」
オジジは耳をピクッと動かしたが、聞こえなかったふりをして、あくびを噛み殺しながらゆっくりと木箱へと戻っていった。
「あ! シカトしたわね! 主、キャリー持ってきて!」
「あ、はい!」
昨日のシリアスな空気はどこへやら、朝の空き地には、キャリーを構える俺たちと逃げ腰のオジジの追走劇が、賑やかに響き渡るのだった。
その日の昼、オジジは洗濯ネットごとキャリーに収まり、渋々ながら動物病院へ連れて行かれた。
「えーと、検査の結果、今のところ胃腸炎による症状と考えられます」
「それで、あんなに調子悪くなるものなのでしょうか」
「体調が急に悪くなると、猫も動かず、じっとしてしまうことがあります。ただ、昨日はふらつきもあったんですよね。しばらくは注意して様子を見てください」
「老衰とか寿命とかではないんですか」
「今のところ、老衰や寿命が近いと判断する所見はありません。聞いていた年齢のわりには、若々しい印象ですね」
「……」
「それと、腐った魚は絶対に食べさせないでくださいね」
「……はい」
「絶対に、です」
※作者コメント
本作中の「朝まで安静にする」という判断は、創作上の演出です。
現実に猫がぐったりしている、ふらついているなどの症状がある場合は、自己判断で様子を見ず、速やかに動物病院へ相談してください。
また、猫が嫌がるからといって、治療しなくてよいわけではありません。
元気が戻った場合でも、腐敗物を食べた、嘔吐したなどの症状があれば、獣医師に相談しましょう。




