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匂い上書き作戦

 深夜。

 重い足取りでたどり着いたアパートの通路は、静まり返っていた。

 入社三年目、相変わらず部署の雑用をすべて押し付けられ、今日も今日とてサービス残業の嵐。

 擦り切れた精神と疲労で重くなった体を引きずり、俺は「ただいまー……」と消え入るような声でドアを開けた。


 靴を脱ぎ、疲労困憊で暗い玄関を進もうとしたその時──玄関の照明の薄明かりの中に、人影があった。

 玄関の隅で仁王立ちし、ピタリと足を止めているのは、我が家の愛猫であり自称・24歳美少女のコハクだ。


 ダボダボのTシャツ一枚を身にまとい、すらりと伸びた白い生足。

 明るく輝く茶髪のセミロングと、あふれんばかりのメリハリを詰め込んだような体型の超絶美人。

 だが、その息をのむような美しい顔立ちがいま、苦々しく歪んでいた。


「……くんくん。……っ!? 何よこれ、変な匂いがするわ!」


 突然、コハクは可愛い鼻に思い切りシワを寄せると、猫のような?素早い動きで俺のスーツに掴みかかった。


「ちょっ、やめろ! 俺がなにをしたって言うんだよ……」

「別の女の匂いがするわ! だれよこの女!?」

「それは先輩の消臭スプレーの匂いで、し、しかも男の……うわああっ!?」


 説得も虚しく、コハクはスーツを奪い取り床に叩きつけると、信じられない行動に出た。

 まるで猫がトイレの後に砂をかけるようなあの独特の動作で、足を使いガシガシとスーツを蹴り飛ばし始めたのだ。


 バシッ、バシッ! と玄関に響く虚しい音。

 見た目は誰もが振り返るレベルの超絶美人、やっていることは完全に激おこ状態のポンコツ猫である。


「やめろ! シワになる! つーかお前、人間になったなら手を使えよ! なんで頑なに足で砂かけるフリしてんだよ!」

「うるさーい! 主は私のものなんだから、外で他の女の匂いをつけてくるなんて万死に値するわ! この浮気者! 尻軽! 下僕! 猫たらし!」

「言いたい放題かよ! 誰が猫たらしだ! そもそも俺はお前の飼い主で……」


「問答無用よっ!」


 言いかけようとした瞬間、彼女がしなやかな跳躍で俺の胸元に飛び込んできた。

 不意を突かれた俺は踏みとどまることができず、「うわっ!?」という情けない悲鳴とともに、そのままドサリと玄関の床に押し倒された。


 背中に走る軽い衝撃。

 そして視界いっぱいに広がる、柔らかで艶やかな茶髪。

 ふわりと鼻腔をくすぐるのは、ひだまりで干した布団のような、甘く優しいコハク固有の匂いだった。


「……主」


 さっきまでのキーキーとした怒声が嘘のように消え去る。

 彼女は俺の首筋にすりっと顔を埋めると、ハァ……と深く息を吸い込んだ。


「やっぱり、こっちの匂いが一番落ち着くわ……。でも、ちがう匂いがまだ残ってる……アタシの匂いで上書きするわ」


 吐息が直接耳元にかかり、全身の毛穴が収縮するような錯覚を覚える。


「……え?」


 呆然とする俺の顔を覗き込むように、コハクは俺の頬に自分の頬をすりすりと寄せてきた。

 すべすべとしたしっとり吸い付くような肌の温もり。

 至近距離で見つめ返してくる、少し潤んだ琥珀色の瞳。

 さらには、俺の胸元にしっかりと押し付けられている、服越しでもはっきりとわかる柔らかな感触。


「くっ……コハク、近い! 近すぎる、離れろ……!」

「嫌よ。主はアタシのなんだから、ちゃんとアタシの印をつけておかないとダメでしょ。ほら、動かないで」


 すり、すり、と愛おしそうに頬を擦り付けてくる。

 猫が飼い主や家具に自分の匂いをつける「フェロモン擦り付け」の習性そのものだ。

 だが、それを24歳相当の超絶美人の姿でやられてみろ。

 理性を保てる男など、この地球上に存在するはずがない。


 ドクドクと心臓がうるさく警鐘を鳴らし、頭の芯がじんわりと熱くなっていく。

 仕事の疲れも、明日への不安も、すべてが吹き飛んで白濁していくような感覚。


(ダメだ……俺の理性が……限界突破する……っ!)


 耐えきれなくなった俺の手は、もはや無意識だった。

 彼女を押し退けるためか、あるいはそのまま抱き寄せてしまうためか──すがるような思いで、俺は彼女の柔らかな肩にそっと触れた。


 ポンッ!


 小気味よい破裂音。

 そして視界を覆う一瞬の白い煙。


「……え?」


 次の瞬間、俺の胸の上にズシッと重い塊が落ちてきた。

 Tシャツの首元からひょっこりと顔を出したのは、見慣れた茶トラの愛猫だった。


「……にゃ〜ん」


 腕の中にいたはずの甘えん坊な美人は跡形もなく消え去り、そこには満足そうにゴロゴロと喉を鳴らす愛猫が一匹。

 彼女は俺の顎の下に「待ってました」と言わんばかりにスリスリと頭を押し付け、そのまま丸くなろうとしている。


「………………」


 静まり返る玄関。

 天井のあかりを見上げながら、俺は深く、深く、今日一番長いため息をついた。


「……はぁぁぁぁ……助かった……のか、俺?」


 触れると猫に戻るという謎の体質のおかげで、間一髪のところで俺の理性と社会的な尊厳は保たれた。

 保たれた、はずなのだが。


 手元に残された茶トラの溢れんばかりの愛おしさと、さっきまでの甘い空間が一瞬で霧散した嵐のような虚無感。

 その二つの間で感情が迷子になり、俺はしばらく冷たい玄関の床から起き上がることができなかった。


「にゃ〜?」


 不思議そうに俺の顔を覗き込んでくるコハクの頭を、俺は力なく撫で回すことしかできなかったのだった。

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