猫のプライドと、10センチの隙間
「……コハク、お前さ。それ本気で言ってんの?」
俺は、部屋の隅でのんきに髪の手入れをしていた人間姿のコハクを見下ろした。
コハクは髪を梳きながら、自信満々に胸を張った。
「当然じゃない! 猫の柔軟性と空間把握能力を舐めないでほしいわね!」
◇
ことの始まりは、俺がテレビ台の裏に落としてしまったエアコンのリモコンだった。
我が家のアパートのテレビ台は、無駄に重い木製のテレビボードだ。
しかも壁との隙間は、目測でわずか10センチほど。
奥は薄暗く、大人の腕を入れることすら困難な「魔の開口部」と化していた。
俺が「ホウキかなんかで掻き出すか……」と呟いた瞬間、コハクの猫としてのプライドに火がついてしまったらしい。
「いい? 主。猫は狭い所が大好きな生き物なの。今は人間だけど、アタシの魂と骨格の柔軟性は本物よ!」
「いや、今の体形はどう見ても普通の人間だろ。絶対無理だって」
「無理じゃないわ! アタシがサクッと入って、リモコンを取ってきてあげる!」
コハクはシャツの袖をまくり上げると、テレビ台と壁の隙間へ向かってにじり寄った。
「いいかコハク、無理は禁物だぞ。『そこ入る?』ってレベルじゃないからな、そこ」
「ふふん、見てなさい!」
コハクは腰を低く落とすと、まずは手を隙間へ突っ込んだ。
「ほら! 腕が入った!」
「いや、腕は入るだろ、腕は! 問題は頭と胸まわりだ!」
「ぬぬ……ぬぬぬぬ……っ!」
コハクは息を呑み、体を真横に向けた。
カニ歩きのような体勢で、ずりずりと隙間へ身体を滑り込ませていく。
ギシ……とテレビ台がかすかに鳴った。
「おい、大丈夫か!? 骨折れるぞ!?」
「平気……っ!猫は頭さえ通ればどこでも通れるのよ!」
「お前は今、人間なんだよ! しかも頭も入ってないだろ!」
俺の制止も聞かず、コハクは「ぬグググ……」と変な声を出しながら、気合で肩を押し込んだ。
奇跡的に、華奢な肩とシャツの摩擦をクリアし、その主張の激しい胸が半分ほどムギュという感じで隙間に吸い込まれていく。
「すご……本当に入ってく……」
俺が思わず感心した、次の瞬間だった。
「──あ」
コハクの動きがピタリと止まった。
「……コハク?」
「……主」
「ん?」
「……詰まった」
「やっぱりな!!!!」
俺は即座に叫んだ。
進むことも、引くこともできない、完璧なホールド状態だ。
「ちょっと、主! なんとかしなさいよ! 引っかかって動かないんだけど!」
「お前が『入れる』って言い張ったんだろ! ほら、息吐いて胸を引っ込めろ!」
「吐いてるわよ! むしろ今、息吸ったら胸が圧迫されて破裂するわよ!」
「どんだけギチギチなんだよ!」
俺は腕を組み、隙間に詰まっているコハクを見下ろした。
焦り散らかしてジタバタと足をバタつかせているが、実のところ一瞬で助けられる。
だが「猫なら余裕」と豪語していた本人に、その事実を今すぐ教えるほど俺はできた人間ではなかった。
(まあ……自業自得だし、ちょっと懲らしめてやるか)
「ああ〜、抜けなくなっちゃったなぁ。参ったな」
棒読みで呟きながら、俺はわざとらしく溜め息をついて見せた。
「棒読みで言わないでよ! 引っ張って! アタシの足をグイッと引っ張りなさいよ!」
「ダメダメ。下手に引っ張ったら摩擦で服が脱げちゃうか、お前の皮膚が持っていかれるぞ。この木製家具、意外と角が鋭利だし」
「じゃあどうするのよ!? アタシはこのまま、ここで壁と家具のサンドイッチとして生きていくしかないの!?」
「んっ、そうだな。ここに飾りの置物として定住するのもアリかもしれない」
「そうだなじゃないの! あんたの可愛いコハクが挟まってるのよ!? ……あ〜あ、パニックになったら、なんだかお腹空いてきちゃったわ。主、ちゅーる食べさせて」
「はいよ」
俺はキッチンからちゅーるを1本取ってくると、隙間から突き出ているコハクの口元へ近づけた。
「はい、あーん」
「ちゅー……ちゅー……んむ。……美味しいけど! 違うでしょ! 今はおやつタイムじゃなくて救出作戦の最中なの!」
ちゅーるを舐めながらも、コハクはごちゃごちゃと文句を言っている。
自分の置かれた間抜けな状況と、ちゅーるの美味しさの間で感情が迷子になっているようだ。
俺はクスクスと笑いながら、スマホを取り出してカメラを向けた。
「おい主、今カシャッて言わなかった!? 写真撮ったでしょ!」
「撮ってない撮ってない。さーて、どうやって助け出すかなぁ」
「早くしてよ! ……あ」
突然、コハクの声のトーンが変わった。
「ん? どうした?」
「……主。困ったわ。これは本当に困った」
「なんだよ、今度は肩が痛くなってき──」
「……トイレにいきたくなった。どうしたらいいの」
隙間の奥から届いた声は、切実そのものだった。
ジタバタとバタついていた足がピタリと止まり、今度はモジモジと小刻みに震え始めている。
「……まじで?」
「まぢで。ちゅーる食べたから胃腸が動き出したらしくて……もう結構限界かもしれない」
「おいおいおい!」
さすがの俺も、そこまで可哀想な真似はできない。
このまま人間の姿で漏らされたら、コハクの尊厳も、俺の精神も、そしてリビングの床も終わる。
「仕方ないな」
俺はしゃがみ込み、コハクの肩にそっと手を触れた。
ポンッ!
一瞬の静寂のあと、軽やかな音とともに白い煙が狭い隙間からモワッと立ち込めた。
直後、空気を失ったシャツとショートパンツが、ペタンコに萎む。
「……ふぅ」
服の首元から、ぬるりと這い出してきたのは、小柄な一匹の茶トラだった。
「ニャァーーッ!!」
人間に戻ったときの記憶と知性を保ったまま、悲痛な鳴き声をあげたコハクは、廊下へと一目散に猛ダッシュしていった。
脱ぎ捨てられた服を踏みつけ、爪をカチカチとフローリングに響かせながら、猫用トイレへと滑り込んでいく。
ドタバタという音が収まり、リビングには静寂が戻った。
「……やれやれ」
俺は床に転がったコハクの服を拾い上げて畳むと、部屋の隅にあったホウキを取り出した。
柄の長さを利用して、テレビ台の10センチの隙間へ差し込む。
コソコソと奥を探ると、カチリと硬い感覚があった。
「ほいっと」
手前に引っ張り出すと、目当てのエアコンのリモコンが、あっさりとホウキの先に引っかかって出てきた。所要時間、わずか5秒。
リモコンのホコリをパッパッと払い、エアコンを操作する。
ピッという電子音が鳴り、涼しい風が吹き出し始めた。
数分後。
すっかり用を足し終え、魂が抜けたような顔をした茶トラが、トボトボとリビングへ戻ってきた。
「おかえり、コハク」
「ニャ〜〜……」
コハクはトコトコと歩み寄ると、俺の膝の上に飛び乗り、そのまま力なく丸くなった。
『頭さえ通ればどこでも通れる』という猫の矜持は、10センチの隙間と生理現象によって見事に打ち砕かれたらしい。
俺は落ち込むコハクの背中を、毛並みに沿って優しく撫でてやった。
「まあ、怪我がなくて良かったよ。ほら、リモコンも無事に回収できたしな」
「フニャェフッシャァー……」
悔しそうに小さく威嚇しながらも、撫でられる心地よさには勝てないらしく、コハクはすぐにゴロゴロと喉を鳴らし始めた。
「次は無理すんなよ、猫隊長」
「ニャォン」
懲りないコハクの頭をポンポンと叩きながら、俺たちはエアコンの心地よい風に包まれて、まったりとした日曜の続きを楽しんだ。




