上級猫の恩返し〜猫の爪とぎ事情〜
日曜日の午後。
俺とコハクがリビングでまったり過ごしていると、アパートの前に巨大なトラックが止まる重苦しい音が響いた。
続いて、階段をドタバタと上ってくる複数の足音。
何事かとドアを開けた俺とコハクの目に飛び込んできたのは、制服を着た大柄な作業員四人と、その中央で腕を組み、仕立ての良いスーツを完璧に着こなして佇む男──アーサーだった。
「やあ、下僕君。先日のハンカチの件、なかなか気が利いていたぞ」
「あ、アーサー……? なんだよその大所帯は」
「ふっ、礼だ。我が家で特注した超高級キャットタワーを君たちに寄贈しに来てやった」
アーサーがパチンと指を鳴らすと、作業員たちが布を被せられた巨大な物体を担ぎ上げた。
見上げるほどの高さ。
イタリア産の最高級銘木を使い、職人が手作業で削り出したというそれは、もはや猫用遊具というより、億万長者のリビングに置かれる芸術家具だった。
「さあ、運び込みたまえ!」
「はっ!」
気合いを入れた作業員たちが玄関へ突入しようとする……が。
ガツンッ!!
「……あ」
キャットタワーの土台部分が、アパートの玄関枠にガッチリと挟まり、一ミリたりとも奥へ進まなくなった。
「ぬぬ……!? おい、どうした! 入らんぞ!」
「坊ちゃん、このアパートの間口と天井高では、どうあがいても搬入不可能です!」
「なんだと!?」
作業員たちが押し引きしてみるが、みしみしと玄関枠が悲鳴を上げるだけだ。
コハクが呆れ顔で腕を組み、鼻で笑った。
「当たり前でしょ! こんなボロアパートにそんなデカいの入るわけないじゃない!」
「ふ、ふん! 君たちの住処が狭すぎるのが悪いのだ! 設計思想に問題がある!」
「おまえらなぁ、言いたい放題言いやがって……」
アーサーは捨て台詞を吐くと、作業員たちに一旦タワーを外へ戻させた。
フシューッと溜め息をつき、眉間を揉みながら部屋へ足を踏み入れるイケメンスーツ猫。
その時、彼の瞳が、リビングの隅に転がっている「あるもの」に留まった。
ホームセンターで数百円で買ってきた、なんてことのない市販の段ボール製爪とぎだ。
コハクがいつもバリバリと豪快に研いでいるため、中央が少し凹んでボロボロになっている。
「……む? それは何だね」
「ん? これか? ホームセンターで買った段ボールの爪とぎだけど」
「段ボール……? ああ、あの安価な梱包資材か。我が家では溝加工のされたヒノキかシルク製ペルシャ絨毯しか使わんからな。そんな粗末な紙くずで爪が研げるわけが……」
言いながらも、アーサーの視線は吸い寄せられるように段ボール爪とぎへ固定されていた。
人間姿のまま、そっと近づき、片膝をつく。
そして、高級スーツの袖をほんの少し捲り上げると、恐る恐る指先で段ボールの断面をすっ……となぞった。
「……ッ!?」
アーサーの顔色が変わった。
その指先が、もう一度、同じ場所をなぞる。
「…………」
さらにもう一度。
今度は、周りに誰もいないことを確認するように周りを見るアーサー。
まぁ、俺もコハクもずっと見ているのだが……
彼はそっと身をかがめ、両手の爪を段ボールの層にグッと食い込ませた。
バリッ……バリバリバリッ!
「……ゥッあぁ……!!」
アーサーの口から、吐息のような声が漏れた。
人間の手でありながら、指先から脳へと伝わる絶妙な抵抗感。
ヒノキのよう爪が割れたり、ペルシャ絨毯のように爪に絡まることもない。
吸い付くように噛み合い、心地よい音とともにストレスが吹き飛んでいく感覚!
「な、なんだこの馴染む感触は……! 削れる音の音響効果も素晴らしい……最高じゃないか……!!」
アーサーの指が、段ボールの溝を何度も往復する。
「爪が……爪が、喜んでいる……!」
うっとりと目を丸くし、無我夢中でバリバリと爪を立てるイケメンスーツ男。
コハクがジト目で俺の袖を引っ張った。
「主、あいつ完全にハマってるわね」
「だな……」
ハッと我に返ったアーサーは、ガバッと立ち上がると、咳払いを一つしてスーツの乱れを整えた。
だが、その目はランランと輝いている。
「……コハク、下僕君。提案がある」
「何よ」
「あのキャットタワーは大きすぎて入らん故、爪とぎ部分のパーツだけ外してここに置いていってやる。……その代わり!」
アーサーはビシッと指を突きつけた。
「その『段ボールの爪とぎ』は私が貰っていく!!」
「ちょっと! それ、アタシのお気に入りなんだけど!?」
「なに、君は私が置いていく爪研ぎをつかえばいいだろう!」
「そういう問題じゃないのよ!」
アーサーは大事そうにボロボロの段ボール爪とぎを抱えると、高笑いを残してトラックへと乗り込み、嵐のように去っていったのだった。
◇
──そして、次の週。
「主〜、またあのトラックが来てるわよ……」
デジャブのような重低音とともに、再びアパートの前に巨大トラックが横付けされた。
階段を上がってきたアーサーは、先週にも増して誇らしげなドヤ顔を浮かべている。
「やあ、下僕君! 前回の反省を活かし、完璧な改良を施した最高の一品を持ってきたぞ!」
パチンと指を鳴らすアーサー。
作業員たちが再び運び込んできたのは……先週の超高級キャットタワーの台座の爪とぎをパワーアップした特注キャットタワーだった。
「ご覧たまえ! 君たちが愛用する段ボールの良さと、我が家の誇る最高級銘木のコラボレーションだ! これぞ究極の爪とぎタワー──」
「ちょっと待て」
俺は腕を組んで、静かにアーサーの言葉を遮った。
「だから、それは入らないって前回分かったよな?」
「……え?」
作業員たちがタワーを玄関に押し込もうとする。
ガツンッ!!
当然のように、一ミリも入らない。
先週とまったく同じ角度、まったく同じ場所でガッチリと玄関枠に引っかかり、搬入は完全にストップした。
「な、なぜだ!? 爪とぎを改良したのだぞ!?」
「全高と横幅が縮んでねえんだよ! 爪とぎ関係ないだろ!!」
俺の至極当然なツッコミに、アーサーは「ハッ……!」と息を呑み、雷に打たれたような顔で固まった。
「そ、そうか……! この貧相なアパートの狭い間口を通過させるには、もっと緻密なディメンション設計が必要だというのか……! なんたる不覚……!」
「やっぱり猫だな、お前……頭さえ入れば体も通ると思っているだろ」
「なるほど、次は、頭さえ通れば全身が通り抜けられる構造に……!」
「猫の特徴を家具設計に持ち込むな!」
アーサーは泣く泣くトラックで引き返していくのだった。
「……次も入らない気がするわ」
「だな。まあ、段ボール爪とぎを気に入ってくれたみたいだから何よりだけどさ」
「……爪とぎだけ持ってくればいいんじゃない?」
「それなら普通に入るな」
遠ざかるトラックを見送りながら、俺とコハクは顔を見合わせて苦笑いするのだった。
「アーサーの持ってきた段ボール製爪とぎ、市販品とちょっと違うな」
「当然だ。我が家のお抱え職人に和紙を漉いてもらってな。何重にも重ねて作ったのだ。研ぎ心地は素晴らしいぞ」
「どこに金使ってるんだよ」
「ふっ、下僕君は猫にとっての爪とぎの大切さをわかってないと見える」
「そうよ、主は猫の爪とぎに対するこだわりを理解していないのよ。そこがよくないわ」
「コハク……お前もか」
「またもや、入らんか。なら次は、より柔軟性の高い高級銘木を探すぞ!」
「いや、木の種類を変えてもサイズは変わらないからな」
「アーサーの置いていったヒノキの爪研ぎだが、コハクどうだ?」
「なんか研ぎ心地も良くないし、変な匂いするから嫌い」
「だな、いつもの段ボール製爪とぎ買ってくるか」
「あっちの和紙で作ったってやつの方がいい」
「無茶言うよな。あんなの売ってないから」
「えー、じゃあ作ってよ」
「……」




