夜風の茶話会と、二人の強がり
数日後の夜。
俺が近所のコンビニへ夜食を買いに出かけた際、アパートの裏手にある小さな公園のベンチで、不思議な光景を目撃した。
街灯が静かに照らすベンチの上には、この前コハクに会いに来たあの高級スーツの男──人間化したイケメン猫が腰掛けていた。
そしてその隣には、これまた人間の姿になったコハクが並んで座り、二人で静かに夜風に当たっている。
(……え、デジャブ? また喧嘩か?)
一瞬ヒヤッとして身を潜めたが、どうやら様子が違う。
大声を出すでも猫パンチを繰り出すでもなく、空気はどこか穏やかだった。
コハクは夜空を見上げるようにして、静かに男に話しかけている。
「……アーサーってさ、足、痛いんでしょ」
コハクの突然の言葉に、アーサーと言われたそのイケメン猫はぴくっと眉を動かし、フンとそっぽを向いた。
「……何のことだ。私は完璧な上級猫だ。痛みなど……」
「強がらなくていいのよ。アタシ、あの日あんたが走ってきた時、少し足を庇ってるのに気づいてたんだから」
コハクは呆れたようにため息をつくと、そっとアーサーに視線だけをうつした。
「……フン。裕福な我が主人は良いフードとサプリをくれるが、痛いときは痛いのだ」
アーサーがぽつりと本音を漏らす。
「専用のキャットタワーが三つあって、」
「ほう」
「庭には日当たりの良い場所が七カ所あって、」
「はぁ」
「さらに月一で獣医師に検診をしてもらって」
「……」
「そして毎朝、最高級の猫じゃらしで遊んでもらっているのだ」
「なんだか、同情しなくてもいい気がしてきたわね」
呆れ顔のコハクに対し、アーサーは寂しげに目を伏せた。
「……愛されているからこそ、その愛情を心配という形で返したくないだろう」
裕福な家庭で何不自由なく暮らし、飼い主の愛情を感じている彼だからこそ、弱さを見せて心配をかけまいと、痛みを隠し続けていたのだ。
コハクは、ふっと柔らかく目を細めた。
「わかるわよ。高貴で美しくいなきゃいけない理由があるのよね。……でもね、主の前でくらい、たまには弱気になったっていいのよ」
「……君の飼い主は、そういう男なのか?」
「そうよ。どんなアタシでも尽くしてくれる……世界で一番優しい下僕なんだから」
ドヤ顔で胸を張って語るコハクに、アーサーは呆れつつも、どこか羨ましそうに目を細めた。
「……ふん。相変わらず、ほれぼれするほどノロケるな、君は」
「事実よ」
コハクが自分の隣をぽんぽんと叩く。
「……ほら、こっちに来なさい」
「何?」
「痛いんでしょ。だったら、ここにいればいいじゃない」
「それで何になる」
「痛い時に一人でいるよりはマシでしょう」
「……余計なお世話だ」
「ところで、コハク。君の主は、毎晩あんな時間まで働いているのか?」
「下僕のこと? そうなのよ。あいつ、働きすぎなの」
「下僕……君か。それは君がもっと甘えてやればいいのだよ」
「……十分甘えてるわよ」
「そうは見えないが」
「うるさいわね」
「私なら、もっと分かりやすく膝に乗るぞ」
「……」
「君はプライドが高すぎる」
「あんたに言われたくないわよ!」
二人の不器用な会話が夜の空気に溶けていく。
「……まあ、でも」
「何だ?」
「主、ちゃんとアタシのこと大事にしてくれるから」
「……そうか」
「ところであんた、耳も痛いんじゃないの」
「この耳か。別に痛くない。怪我でもないし生まれつきだからな」
「あっそうなの」
「……何だ?」
「別に。ちょっと気になっただけ」
二匹の猫……いや、人間の姿をした二人が、月明かりの下で静かに語り合う。
かつてプロポーズを強力な猫パンチで跳ね返した間柄だが、そこには同じ「猫」として、そして「愛される存在」としての妙な友情と連帯感が生まれていた。
◇
「……コハクー、帰るぞー」
俺が少し離れた場所から声をかけると、コハクは「あっ、主だ!」と言い、アーサーに一言声をかけてから、こちらへトコトコと駆け寄ってきた。
俺はベンチの上に座るアーサーに視線を向けた。
「……お前、足痛むのか?」
俺がそう呟くと、アーサーは目を見開いた。
「下僕君には関係ないだろ」
「そうだ、ちょっと待ってろよ」
俺はポケットからハンカチを取り出し、近くにあった公園の水道へ向かうと、冷たい水で濡らして固く絞ってから彼の前に差し出した。
「痛むところは、少し冷やせば楽になるぞ」
アーサーは信じられないものを見るような目で俺とハンカチを見比べ、それから「フン……気遣いは無用だ」とでも言いたげにプイッと横を向いた。
「じゃあな。無理すんなよ」
俺がコハクに並んで歩き出すと、背後からかすかな衣擦れの音が聞こえた。
振り返らずにそっと視線だけを向けると、アーサーが誰も見ていないのを確認してから、そっとその濡れたハンカチを自分の足首に当てている。
そして、天を仰ぎ穏やかな表情をしているのが見えた。
「主、あいつに優しくしてあげたの?」
「おう。お前が心配そうにしてたからな」
歩きながら俺の顔を見上げてくるコハク。
彼女はどこか照れくさそうに、俺の腕を両手でギュッと取った。
「……ふん。主は誰にでも優しいんだから」
「でも、嬉しそうだな」
「嬉しくなんかないわよ」
「でも、尻尾」
「見るな!」
コハクは、尻尾のように揺れるシャツの裾を押さえる。
しばらくして、赤い顔のまま、コハクは俺の袖にすり寄ってきた。
優雅で完璧に見える上級猫にも、誰にも言えない悩みや弱点がある。
そして、それを見抜いてそっと寄り添えるコハクは、過去の孤独を知っているからこそ「本当の優しさ」を知っているのだった。
「なんで、お前にまで下僕君なんて言われなくちゃいけないんだよ」
「なに? おぬしの名前が、下僕だからだろ。コハクがそう呼んでいた。だから私は、下僕の君という敬意を込めて、下僕君とよばせてもらっているのだが?」
「それ、敬意の込め方としてどうなんだよ」




