求婚者と高級猫缶の誘惑
抜けるような秋晴れの午後。
コハクはシックな紺のマウンテンパーカーの裾から、鮮やかな橙のリブニットを覗かせ、軽やかな足取りで近所の散歩を楽しんでいた。
人間の姿になって歩く街並みは、猫の時とは景色が違って見えて楽しいらしい。
ルンルン気分で住宅街を歩いていた彼女だったが、角を曲がったところでピタリと足を止めた。
道の向こうから、一人の男が歩いてくる。
身長は180センチを軽く超え、仕立ての良い高級そうなスーツを完璧に着こなした30歳前後の高身長イケメンだった。
だが、コハクの目は誤魔化せない。
男の佇まい、漂う気配、そして──両耳の先が前方に折りたたまれている。
(……猫だわ)
コハクは直感した。
同じ人間化した猫だからこそ分かる、独特の匂いと気配。
向こうもすぐに気づいたらしい。
コハクの姿を見た瞬間、男は足を止め、鋭い瞳でじっとコハクを見つめた。
そして、スッと歩み寄ってくると、片膝を地面についてコハクの手を取ったのだ。
「……見つけた。これほど気高く美しく、洗練されたメス猫が存在したとは。私と結婚してくれ」
「はあ!? 誰よあんた! きもちわるっ!!」
ドゴォッ!!
脊髄反射だった。
コハクの放った渾身の猫パンチが男の顎を綺麗に撃ち抜き、イケメンは「ぬわっ!?」と声を上げて尻餅をついた。
「近寄らないでよ!!」
叫び声を残し、コハクは一目散に逃げ帰ってきたのだった。
◇
「……ってことがあったのよ! 災難だわ!」
息を切らせて部屋に飛び込んできたコハクから話を聞き、俺はソファの上で抱腹絶倒していた。
「ぶはははは! 求婚されて猫パンチ食らわせて逃げてきたって……っ、漫画かよ!」
「笑い事じゃないわよ! アタシは本気でピンチだったんだから!」
「いや、だって高身長イケメンのスーツ男が片膝ついてプロポーズしてきたんだろ? そいつまるで少女漫画の王子様じゃん」
「中身はただのキザなオス猫よ! 気持ち悪いのよ!」
プンプンと怒り狂うコハクだったが、その時──
ピンポーン。
部屋に軽やかなチャイムの音が響いた。
「ん? 宅配便か?」
「主、待ってよ……何か嫌な予感が……」
警戒するコハクをよそに俺が玄関へ向かい、ドアを開けると──そこには、男が立っていた。
30歳前後、高身長、高級スーツ、そして両耳が折れたイケメン。
男は俺を一瞥し「失礼するよ」と言いながら、まったく失礼だと思っていない足取りで、俺の横を通り過ぎていった。
「やっぱりここにいたか、私の愛しきレディ」
「げぇっ!? なんでここが分かったのよ!?」
「猫の嗅覚を舐めてもらっては困る。君の匂いを辿ればたやすいことだ」
男は洗練された動作でスーツの袖口を正すと、俺の狭いアパートを見回し、フッと蔑むような笑みを浮かべた。
「……なんだね、このみすぼらしい部屋は。まったくこの狭苦しい! 君のような高貴な美猫が暮らす場所とは思えんな」
「ちょっと、人の家を『みすぼらしい』って言わないでくれる!?」
「本当のことだろ。……私はね、超裕福な家庭で飼われているのだよ。広い庭つきの大豪邸で、毎日最高級の暮らしをしている。私と来れば、こんな狭いボロアパートとは比べ物にならない、極上の生活を約束しよう」
男は朗々と己の裕福さを力説し始めた。
だが、コハクは腕を組んでプイッと横を向く。
「興味ないわね。アタシはここが気に入ってるの」
「強がりを言わなくてもいい。……では、これならどうだね?」
男がパチンと指を鳴らして、なぜか通路に置いてあった巨大な段ボール箱から、何かを取り出した。
ズラリ。
リビングのテーブルの上に並べられたのは、一缶数千円はするであろう、海外直輸入の超最高級猫缶の山だった。
本マグロの大トロ白トリュフ添え。
スイス産グレインフェッド仔牛のフィレ。
フランス産オーガニックターキーの胸肉。
──素人の俺が見てもヤバいと分かるプレミアム猫缶のコレクションだ。
「……ッ!!」
コハクの顔色が変わった。
琥珀色の瞳が大きく見開かれ、目が爛々と輝いている。
「こ、これは……伝説の『極上白トリュフ仕立てのマグロパテ』……!? ネットでしか見たことない幻の猫缶……!」
「フフフ、そうだろう。私の家ではこれが主食なのだよ。私を選べば、これを毎日食べ放題だ」
ジュルリ……。
コハクの口角から、一筋の涎がツッと垂れた。
完全にノックアウトされている。
脚がガクガクと震え、手は猫缶へ向かって吸い寄せられるように伸びていく。
欲望剥き出しの顔だ。
「食……食……食べ……っ!」
葛藤するコハク。
高級猫缶の魔力に負けて、このイケメン猫についていってしまうのか?
──俺がヒヤヒヤしながら見守っていると、コハクはぎゅっと目を閉じ、己の手を全力で叩き落とした。
「……断るわ!!!」
「な、なに……!?」
男は目を見開いた。
「なぜだ!? 君の瞳は明らかにそれを欲している! なぜ拒絶する! こんな貧相な下僕の元にいて、何になるというのだ!?」
男の問い詰めに対し、コハクはゆっくりと目を開けた。
涎を拭い、裾をギュッと握りしめると、男をまっすぐに見据えて言い放った。
「当たり前でしょ……アタシが帰る場所は、ここなのよ!」
「……っ!?」
「どれだけ高級な缶詰があろうが、どれだけ広い家があろうが関係ないわ! アタシの主は、世界中でこの人だけなのよ!」
胸を張り、堂々と宣言するコハク。
俺の胸に、じーんと温かいものが込み上げてくる。
普段は生意気なことばかり言っているが、彼女にとって俺がどれほどの存在なのかが痛いほど伝わってきた。
「いいこと! こんな狭い部屋でもね」
「……んっ?」
「日向に行きたいのに主が邪魔な時があっても」
「……」
「猫缶もスーパーの特売品の時があるとしても」
「……」
「猫じゃらしが、百均のでも」
「おい、不満タラタラじゃねーか」
感動しかけた俺の涙を返してほしい……
「主がいれば何もいらないわ!」
コハクは男に向かってフンと鼻を鳴らした。
「それにね……絶対的な理由がもう一つあるわ」
「なっ、なんだ!?」
「あんたの匂い、嫌いだからよ!」
「なっ……!?」
「あんたからは高そうな香水の匂いはするけど、全然安心できないわ! 主の匂いはね、日だまりみたいで、アタシが一番落ち着く最高の匂いなの! あんたの隣になんて、一秒だっていられないわ!」
ハッキリと言い切られ、高級スーツの男はショックでガタガタと震え出した。
「くっ……私の勝ち組の匂いより、その貧乏臭い人間の匂いを選ぶというのか……! なんという狂気……!」
「貧乏臭いって言うな!」
俺のツッコミを無視し、男は「覚えておけよ!」と捨て台詞を残すと、泣きながら高級猫缶の山を回収し、嵐のように去っていった。
◇
静まり返ったリビング。
「……ふぅ、散々な目にあったわ」
コハクは肩の力を抜くと、どかっとソファに座り込んだ。
「……コハク」
「何よ」
「ありがとな。俺のこと、あんな風に思ってくれてたんだな」
俺がちょっと照れくさそうに微笑むと、コハクはハッと自分の発言を思い出したように顔を真っ赤にした。
「っ〜〜〜〜!? 勘違いしないでちょうだい! さっきのはただの追い払うための言い訳よ! 言い訳!」
「はいはい。でも、匂いが一番落ち着くんだろ?」
「言ってないわよそんなこと! ばか! 主のバカ!」
ポンッ!
照れくささが限界突破したコハクは、俺の手をとり茶トラ猫の姿に戻ってしまった。
そして俺の膝の上に飛び乗ってくると、ドカッと腰を下ろし、俺の服に顔を強く押し付けてきた。
「……クンクン」
「やっぱり嗅いでるじゃねえか」
「ニャー!」
俺の膝の上で、耳まで真っ赤?にして丸くなる愛猫。
高級猫缶にも負けない俺たちの絆を確かめ合えた、少し賑やかな秋の午後だった。
「昨日の高級猫缶には負けるけど、お前が好きそうなの買ってきたぞ」
「……!!」
「昨日は偉かったからな」
「……ふ、ふん」
「尻尾、すごいことになってるぞ」
「昨日の男が持ってきたやつより、こっちのほうが美味しそうだわ」
「昨日のより値段十分の一だけどな」
「でも、主が買ってきたから。だから、こっちのほうが好きなの」




