人間の体の不便さと、新品ソファの危機
休日の午後。
俺がリビングに届いたばかりのソファ──大枚をはたいて購入した、チルソファの座り心地を堪能していた。
ゆったりと身を委ねた瞬間、まるで体重という概念そのものがふっと消え去ってしまうかのような錯覚。
ただ柔らかいだけではない。
沈み込みすぎず、かといって押し返すような硬さもない。
絶妙な反発力で背中から腰、足先にかけての曲線に寸分の狂いもなく寄り添い、身体のあらゆる結び目を解きほぐしていく──まさに「座る」のではなく「包み込まれる」と表現するにふさわしい逸品。
最高のリラックスを提供してくれる。
そんな俺が至福の感触を満喫していたときのことだ。
バタバタと激しい足音が響き、コハクが鬼の形相で迫ってきた。
いつものダボダボTシャツ姿だが、その全身から溢れ出しているのは、尋常ではないイライラとストレスの波動だった。
「主! ちょっとどうにかしてよ!」
「うわっ、なんだよ急に!?」
コハクは俺の目の前に仁王立ちすると、自分の指先をイライラと見つめ、それから背中を自らの手で必死に掻こうと身もだえし始めた。
「もう限界! 人間の体って本当に不便で嫌になるわ!」
「いきなりどうしたんだよ」
「爪が研げないのよ! 指の先がムズムズして、思いっきり『バリバリバリッ!』ってやりたくてたまらないの! それに背中の真ん中がうずうずするのに、人間の手じゃ届かないし、キャットタワーの最上階に飛び乗ろうとしたら天井に頭をぶつけそうになるし!」
元猫ならではのストレスが爆発したらしい。コハクは必死の形相で俺に詰め寄ってくる。
「……じゃあ、爪切りで爪切るか? 孫の手出すか?」
「そんなので満足できるわけないでしょ! アタシは猫になって、思いっきり爪を研ぎたいのよ!」
「絶対ダメだ!!」
俺は即座に叫んだ。
なぜなら、今のリビングには──届いたばかりのチルソファがあるからだ!
爪を立てたら、さぞ気持ちよく引っかかるに違いない。
爪研ぎの欲求が最高潮に達している状態で猫に戻したら、どうなるかなど目に見えている。
「なんでよ! 一回触りなさいよ!」
「触らん! 今のお前は危険すぎる!」
「いいから触りなさいってば!」
コハクは両手を突き出し、俺の手を握ろうと猛アタックを仕かけてきた。
無防備かつ必死な自称美少女が、「触って! 早く触って!」と迫ってくる光景は、普通なら男子にとってご褒美以外の何物でもない。
だが今の俺にとっては、破滅へのカウントダウンでしかなかった。
「嫌だ! 来るな! あっち行け!」
「待ちなさいよ! ちょっと触るだけでいいのよ!」
俺はソファを守る防波堤となるべく、リビングの中を必死で逃げ回った。
テーブルを挟んでグルグル回り、クッションを盾にして防戦一方。
コハクはソファの背もたれに手をついて飛び越えてくる。
「お前、人間の姿でそういう動きするな! スカートじゃないからって何でもありか!」
「素直にアタシに触れば良いだけの事でしょ」
「ダメだ! 今お前が猫に戻ったら、さっき買ったばっかりのソファで絶対に爪研ぎされる!」
「しないわよ! たぶん!」
「『たぶん』って言ったな!? 絶対やる気満々だろ!」
「だって、あのソファの爪が掛かりそうな質感と踏ん張るの丁度よい弾力性、絶対に研ぎ心地最高じゃない!」
「本音出たーーー!!」
人間姿の美女に追いかけ回され、逃げ惑う男。
絵面だけ見れば羨ましいかもしれないが、俺の頭の中はチルソファを守ることで一杯だった。
「お願いだから〜! もう我慢の限界なの〜!」
追い詰められたコハクは、涙目になりながら追いかけてくる。
そんな、コハクにチラリと視線を向けた拍子に、俺の足がテーブルに引っ掛かる。
「あっ、ヤバ──」
どてっとその場に転んでしまう俺。
起き上がろうとする俺に飛び込んでくるコハク。
思わず身体でキャッチする体勢を取ってしまう。
ぎゅむっ、となにやら柔らかい感触が顔面に伝わった瞬間。
ポンッ!
軽い破裂音とともに、一瞬の白い煙。
俺の腕の中にいた美女は消え、腕をすり抜けて床に着地したのは──完全に理性を爪研ぎの欲求に支配された、一匹の茶トラ猫だった。
「あーっ! だからダメってぇ!!」
俺は絶叫した。
猫に戻ったコハクは、俺の悲鳴など聞こえていないかのように、瞳孔を極限まで開かせて「カッ!」と息を吐いた。
そして、吸い寄せられるように一直線へ走る。
その目に映っているのは、世界でもっとも魅惑的な獲物──いや、届いたばかりの新品チルソファだ!
バリバリバリバリバリバリッ!!!
「ギャーーー! 俺のチルソファがぁぁぁ!!」
部屋中に響き渡る、繊維の一本一本が裂ける残酷な音。
コハクは前脚をピーンと伸ばし、背中を綺麗に反らせて、この世の幸福をすべて噛み締めるような超満足そうな表情を浮かべていた。
「ニャ〜〜〜〜ン……」
「お前なぁぁぁ!!」
スッキリした顔で背伸びをする愛猫と、ボロボロになったソファを前に、俺は膝から崩れ落ちるしかなかったのだった。




