秘密の同居猫と幻覚
休日。
滅多に人を招かない俺の部屋に、大学時代からの悪友である佐藤が遊びに来ていた。
「へえ、綺麗にしてんじゃん。もっと足の踏み場もない汚部屋かと思ってたわ」
「失礼だな。これでも毎日掃除くらいはして……」
つまみを片手に、缶チューハイを開ける佐藤。
雑談がてら、ふと佐藤がリビングの隅に置かれたキャットタワーに目を留めた。
「そういやお前、猫飼ってたよな? どこ行ったの?」
「あ、猫? うちの茶トラは今ベッドの下で寝て……」
俺がそう答えかけた、まさにその時だった。
ポンッ……ガサゴソ……ズササッ。
ベッドの下から、不穏な効果音とともに何かが這い出てきた。
俺と佐藤の視線が同時にそちらへ向く。
ベッドの隙間から滑り出てきたのは──なんと、色気漂うオシャレな私服を完璧に着こなした、超絶美人だった。
輝くような茶髪のセミロング、吸い込まれそうな琥珀色の瞳、そして抜群のボディライン。
彼女は猫のように伸びをすると、軽く服の裾を払って立ち上がった。
「……ふぅ、やっと人間になれたわ。主、ちゅ〜る頂戴」
静まり返るリビング。
時が止まったかのような沈黙が訪れた。
「え……???? 誰……?????」
佐藤の手から、開けたばかりの缶チューハイがすっぽ抜けそうになる。目玉が飛び出さんばかりに見開かれ、顔面はみるみるうちに蒼白になっていた。
(やばいやばいやばい!! タイミング悪すぎるだろ!!)
俺の脳内アラートが鳴り響く。
放っておくと勝手に人間になる体質とはいえ、よりによって友達が来ている最中に、しかもお洒落な服までバッチリ着込んで登場するなんて聞いていない。
「ち、違うんだ佐藤! こいつは……その……、幻覚というか……!」
パニックになった俺は、誤魔化す一心でとっさに彼女の肩をがっしりと掴んだ。
ポンッ!
小気味よい破裂音。
一瞬だけ広がった白い煙。
次の瞬間、私服の美人は跡形もなく消え去り、床には無造作に落ちた服と、その中央にちょこんと座る一匹の茶トラ猫が残された。
「……ニャア」
茶トラ猫──コハクは、首をぽてんと傾げ、つぶらな瞳で俺たちを見上げている。
「………………」
佐藤は口を半開きにしたまま、硬直していた。
パチパチと何度かまばたきをし、自分の目を擦り、床の服と茶トラ猫を交互に見つめる。
「……俺、疲れすぎて幻覚でも見てるのか……?」
「さ、佐藤? 大丈夫か?」
「おい……」
「何?」
「今、女の人いたよな?」
「いない」
「いたよな?」
「いない」
「絶対いたろ!! 綺麗なお姉さんいたろ!!」
「気のせいだ。お前、連日の残業で頭がバグってるんだよ。一度眼科か精神科に行った方がいい」
「バグってるのはお前の部屋だよ! じゃあ、この猫は何なんだよ!」
「うちの猫」
「それは分かってんだよ!!」
佐藤は頭を抱えて叫んだ。まあ、そりゃそうだ。目の前で美人が煙とともに消えて猫に化けた(ように見えた)のだから、正気を疑うのも無理はない。
「さっき、ここから出てきたよな!?」
「気のせいだ。猫がベッドの下から出てきただけだ」
「『ちゅ〜る頂戴』って言ったよな!?」
「猫はよく鳴くからな。空耳だろ」
「日本語だったぞ!? 滑舌めちゃくちゃ良かったぞ!?」
「『にゃ〜、ちゅ〜』がそう聞こえただけだ」
俺の苦しすぎる言い訳に、佐藤は「そんなわけあるか!」と顔を真っ赤にしてツッコミを入れる。
その横で、コハクは「なによ、早くちゅ〜る出しなさいよ」と言わんばかりに、俺の足元に体を擦り付けて「フシュ〜」と鼻を鳴らしていた。
佐藤は深呼吸を一つすると、疑いの眼差しで膝をつき、地べたのコハクと目を合わせた。
「……信じらんねぇ。マジで猫しかいない……でも、あの滑らかな日本語は絶対に……」
ブツブツと呟きながら、佐藤は慎重に手を伸ばした。
「あの猫、俺にも一回だけ抱かせてくれ」
「絶対ダメ」
俺は即座にコハクを抱き上げ、佐藤の手が届かないところに退避する。
「なんでだよ! お前の猫だろ、減るもんじゃないだろ!」
「ダメなものはダメ! 噛むから!」
「お前は普通に抱いてるじゃねーか!」
「俺は飼い主だから平気なの! 他人が触ると凶暴化して、顔面を爪でズタズタにするんだよ!」
実際は凶暴化するからではない。
触られたのがきっかけで『ポンッ!』と人間に戻り、さらにパニックが拡大する可能性を心配してだ。
抱き上げられたコハクは、俺の腕の中で「ふにゃー」と不満げな声をあげ、足をじたばたさせている。
『触らせなさいよ、24歳美少女の魅力で骨抜きにしてあげるわ』と言いたげな生意気なドヤ顔だ。
だが、頼むから今だけは大人しくしていてくれ。
「……お前、なんか隠してないか?」
佐藤が目を細め、探偵のような鋭い視線を俺に向けてくる。
「な、何も隠してねぇよ。ただの可愛い愛猫だ」
「怪しい……。あの服は何だよ。さっきの美人が着てたやつだろ」
「あー……それは……ほら、洗濯物を畳むのが面倒で放置してたやつで……」
「男物のサイズじゃねぇだろ! どう見てもレディースだろ!」
「俺の趣味だ!!」
「……え?」
「休日に家で着るのが趣味なんだよ! 文句あるか!!」
俺の捨て身の叫びに、佐藤は引いた。
ものすごく哀れむような、見てはいけないものを見てしまったかのような目になり、そっと一歩後退りした。
「……あ、そうなんだ……。お前、いろいろ大変なんだな……仕事、辛いのか……?」
「ちがっ、そういうわけじゃ……!」
「いいよ、追求しない。人には誰しも踏み込まれたくない領域があるよな。急に押し掛けて悪かったな……俺、帰るわ」
「待て佐藤! 誤解だ! 違うんだ!!」
佐藤は缶チューハイを一気に飲み干すと、逃げるように上着を羽織り、玄関へと向かってしまった。
「またな……なんかあったら相談乗るから……メンタルクリニックの知り合い、紹介しようか?」
「いらないから! 本当に違うから!!」
バタン。
ドアが閉まり、静寂がリビングに戻ってきた。
俺は大きな誤解をされたことのショックで、玄関で脱力して崩れ落ちた。
「……はぁ……もう嫌だ……」
俺の腕の中からするりと抜け出したコハクは、ポンッ! と音を立てて再び人間の姿へと戻り、呆れたようにため息をついて腰に手を当てる。
「何よ今の男。美少女の登場に腰を抜かすなんて、失礼な奴ね」
「誰のせいだと思ってんだよ!! お前が変なタイミングで出てくるからだろ!」
「アタシはただ、お腹が空いてちゅ〜るが欲しかっただけよ! ほら、早くよこしなさい!」
ドヤ顔で胸を張るポンコツ自称・美少女猫。
俺は頭を抱えながら、これから佐藤にどうやって言い訳をすればいいのか、遠い目をして考え始めるのだった。
「ねぇコハク、前から気になってたんだけど……コハクって人間に戻るタイミングって決まってるの?」
「自分でもわからないの。数分で戻ることもあるし、数時間そのままのこともある。それでも丸一日猫のままってことはないわ」
「そっかぁ。なにか法則みたいなものが分かればいいんだけど」
「そういうのも、ないわねー」
「なら、気合いとか気持ちとかで、人間になったり、猫のままでいたりとかも、できないのか」
「うーん、こればっかりはアタシの意思じゃどうにもならないというか……」
「難しいんだな」




