へそ天と理性
「お前、猫の姿の時、へそ天するとか、緊張感なさ過ぎだろ。それで良いのか」
休日の午後。
ぽかぽかと柔らかな日差しが差し込むリビングで、俺はソファの上の元愛猫を見下ろしていた。
自称美少女の彼女は、ベッド代わりのソファでコロンと仰向けになり、文字通り無防備の極みといった西洋絵画のようなポーズを取っている。
「あれは、主を信頼しているからしてるのよ。大切な相手にマッサージされると安心するのよ」
「おい、だから人間の姿でその体勢するな! 目に毒なんだよ!」
目のやり場に困った俺は慌てて天を仰ぎ、天井の模様に集中する。
だが、コハクは気にした様子もなく、自慢げに言葉を続けた。
「ふん、主ったら動揺しちゃって可愛いわね。でも本当のことなのよ? 猫がお腹を見せるのは、相手を完璧に信頼してる証拠なんだから。感謝しなさいよね」
「はいはい、光栄ですよ……。でもさ、あの『へそ天』の時に気になってたんだけど……あのタプタプしたお腹のたるみって脂肪だろ。あんなところマッサージされて嬉しいのかよ」
「失礼ね! あれはルーズスキンっていう、猫の身を守るための立派な装備よ!」
コハクはシャツの上から自分のおなかをぽんぽんと手で叩いてみせた。
「人間姿のときには、お腹に脂肪はそんなに付いていないよな」
「そりゃそうでしょ、猫と人間だと脂肪が付く場所が違うのよ」
そう言うと、コハクはむくっと起きて、その主張の激しい胸を無駄に張った。
「……でもね、お腹のマッサージって似ているらしいけどね」
「似ている? 何に?」
「子猫にミルクをせがまれてモミモミされる時みたいな、安心する感じがあるらしいわ」
あまりに予想外の単語が跳びだし、俺の頭の中が混乱した。
「ミルク……」
「そうよ、子猫はミルクを飲みにお腹にも集まるのよ」
「……お前、そういうことに詳しいんだな」
「ふふん、猫集会で友達の三毛から聞いた情報ね」
「それ、三毛の情報がだいぶ怪しくないか?」
「知らないわよ。猫の感覚なんだから、人間には分からないでしょ」
「いや、説明してるのはお前だろ……」
淡々と語る彼女の言葉に、俺は言葉を失った。
べつにへんな気分になっている訳じゃない。
仕事から帰ってきて疲れている時、へそ天をしているコハクのお腹を優しく撫でてやると、温かくて柔らかくて、たしかに俺もリラックス出来るのだ。
喉をゴロゴロと鳴らす愛猫の鼓動を感じながら撫でる時間は、日々の理不尽な雑用や残業の疲れを吹き飛ばしてくれる、俺にとっても大切な癒やしのタイムだった。
……だったのだが。
……子猫がミルクをせがんでモミモミする?
……妙に重量感のある、タプタプしたあの柔らかさ。
そして、今「人間姿」のコハクが目の前にいる。
その彼女が「子猫にミルクをせがまれる感覚でマッサージされている」という構図。
脳内変換が最悪の方向にバグを起こした。
フリーズからの強制再起動だ。
急激に血の気が引き、次の瞬間には爆発的な熱が顔面へ昇っていくのが分かる。
今の姿でそんな理由を言われると、なんだか猛烈に恥ずかしい。
「ご、ごめん。 単にお腹をワシャワシャしてるだけのつもりだったんだ」
俺は両手で顔を覆い、深くため息をついた。
「なによ、急に顔を真っ赤にして。気持ち悪いわね主」
「誰のせいだと思ってんだ誰の! これから猫の姿のお前のお腹を撫でる時、毎回そのワードが頭をよぎるだろ!」
「え? ただ、子育ての頃を思い出すような感じがあるって話じゃない。主ってば、変なこと考えてたんじゃないでしょうね……?」
「考えてねえよ! 考えるような言い方をしたのはお前だろ!」
なにか、意識するようなことを言ったのかと首を傾げる自称・24歳美少女。
このポンコツな愛猫は、自分がどれだけ無防備で、どれだけ俺の理性を試しているのかを分かっていない。
「まあいいわ。ほら、理屈が分かったならもっと優しくマッサージしなさいよ。大人のレディをリラックスさせるのは下僕の務めでしょ」
そう言って、コハクはふたたび無防備に俺の前に手を伸ばしてきた。
「……触ったら猫に戻るんだからな」
「いいわよ。猫に戻ったら、思いっきりお腹マッサージしてね」
強気な笑みを浮かべる彼女の肩に、俺は半ばヤケクソでそっと触れた。
ポンッ!
軽い破裂音と、白い煙。
次の瞬間、ソファの上にはいつもの茶トラ猫がドカッと転がっていた。
「……にゃ〜ん」
姿が猫に戻ると、コハクは迷いなくクルリと仰向けになり、再び完璧な「へそ天」ポーズを完成させた。
パチパチと尻尾の先を振りながら、「早く撫でろ」と催促するように琥珀色の瞳で俺を見つめてくる。
「……ハァ」
俺は観念してその場にしゃがみ込むと、プルプルと震える指先で、彼女のふわふわのお腹にそっと触れた。
……子猫がタプタプをモミモミ。
脳裏を掠める怪しげなフレーズを必死に打ち消しながら、俺はただの「愛猫のマッサージ」に没頭しようと全力を尽くす。
(これは猫のお腹だ。ふわふわの、いつものお腹だ)
「フシュ〜……ゴロゴロ……」
手に伝わる、温かくて愛おしい命の温もり。
コハクは気持ち良さそうに目を細め、喉を鳴らしながら俺の手に自分の頭を擦り付けてきた。
人間になろうが猫になろうが、結局のところ、このポンコツな自称美少女に振り回される毎日からは逃げられそうにないのだった。




