コハクのお尻問題
休日の午後。ぽかぽかと温かい日差しがリビングに差し込む穏やかな時間。
俺はソファに腰掛け、テレビの画面をぼんやりと眺めていた。
そこに、足音を立てずに近づく あいつ。
我が家の愛猫であり、時々人間の姿になるコハクだ。
今の姿は、見慣れた小柄な茶トラ猫。
コハクは俺の膝の上をひょいと飛び越え、クルリと背を向け、当たり前のような顔で俺の顔面にド直球でお尻を向けた。
ポン、と尻尾の付け根を高く持ち上げ、ピコピコと振っている。
猫が信頼する相手に見せる、極めて正常で、極めて日常的な親愛の情の裏返し──通称「お尻トントン」の催促ポーズだ。
「よしよし、トントンか──」
俺はいつものように手を伸ばし、そのお尻を優しくポンポンと叩いてやろうとした。
……としたのだが。
(……待てよ?)
伸ばしかけた手が、ピタリと空気中で停止した。
脳裏に電撃のように閃いたのは、今朝見せつけられた「人間姿」のコハクのプロポーションだった。
ダボダボのTシャツ一枚を羽織り、裾から伸びる白くむっちりとした健康的な生足。
そして、無防備に強調されるグラマラスな腰からお尻にかけての曲線美。
「〜〜〜〜っ!?」
次の瞬間、俺は弾かれたようにバッと顔を背けた。
……この状況、なんだかとってもよろしくないのではないだろうか。
心臓がドクンと嫌な跳ね方をして、急激に顔に熱が昇っていくのがわかる。
「にゃ……?」
不意に差し出されるはずの手が来ず、しかも主が猛烈な勢いで横を向いたため、コハクは首だけをくるりと捻って不思議そうに俺を見上げた。
『主、なにしてるの? 早くトントンしなさいよ』と言いたげな、純粋無垢な琥珀色の瞳。
コハクからしてみれば、ただの日常業務である。
何の裏も意図もない、ごくごく普通の猫のスキンシップだ。
しかし、一度「人間の姿」を意識してしまった俺の頭の中は、完全に大パニックを起こしていた。
(落ち着け俺! これは猫だ! どこからどう見ても、体重四キロの可愛い茶トラ猫じゃないか!)
心の中で自分に言い聞かせる。
そうだ、目の前にいるのはふわふわの愛猫だ。
いつも通りお尻をトントンしてやればいいだけの話。
何を自意識過剰になっているんだバカバカしい。
そう思い直し、チラリと視線をコハクに戻す。
……だが。
(……でも、こいつしばらく触らないでいたら『ポンッ!』って煙がでて、あの超絶美人になるんだよな……?)
思考が脱線する。
いま目の前にある茶トラの小さなお尻と、人間になった時のあのグラマラスなお尻のシルエットが、頭の中で最悪のフュージョンを果たしてしまった。
(無理だ! 猫のお尻を撫でているつもりが、24歳美少女のお尻を撫でているような錯覚に襲われる! 理性が死ぬ!!)
「……っ!」
俺は再び勢いよく天を仰ぎ、天井の模様を食い入るように見つめた。汗が冷たく額を伝う。
(いや待て待て待て! 考えすぎだ俺! こいつはただのポンコツ猫だぞ!? 人間になっても、24歳とか言い張りつつ、ちゅ〜るに目がくらんで、レーザーポインター追いかけて壁に激突する奴だぞ!? 意識する方がどうかしてる!)
自分を納得させようと必死に脳内会議を繰り広げる。
「そうだ……これは猫だ。間違いなく猫なんだ。姿も猫だし、本質も猫。変な妄想をするな! 俺のバカ!」
よし、覚悟を決めた。
俺はただの飼い主。
コハクはただの愛猫。
それ以上でもそれ以下でもない。
自分に強力な暗示をかけ、意を決して視線をゆっくりと彼女へと戻した。
コハクはまだお尻を向けたまま、待ちくたびれたように尻尾をパタパタと振っている。
(良し……撫でるぞ……ただの猫撫でだぞ……)
震える手をゆっくりと伸ばし、彼女の背中から腰にかけてそっと触れ──
(……でも、人間になるんだよな……)
「やっぱり無理──ーっ!!」
ガタッと勢いよく立ち上がってしまった。
「にゃにゃ〜!?」
突然の飼い主の異常行動に、コハクは耳をペタリと伏せて抗議の声をあげた。
お尻トントンしてもらえると思って待っていたのに、急に焦らしに焦らされた挙句、立ち上がって突き放されたのだから当然だ。
コハクは毛を逆立てるわけでもなく、ただただ首を傾げて俺を凝視している。
(今日の主、なんか変……。お仕事で頭がおかしくなったのかしら……?)
そんな心の声が聞こえてきそうなほど、呆れと困惑が入り混じった視線。
当のコハクには、これっぽっちも邪心も照れもない。
人間の姿だろうが猫の姿だろうが、自分は自分、主は主。ただ「大好きな主に甘えたい」という猫としての通常運転を貫いているだけなのだ。
一人で勝手に混乱し、一人で勝手に限界を迎えてハァハァと息を荒げているのは、世界中で俺ただ一人という事実。
「……ハァ……ハァ……」
「……にゃ〜ん」
コハクは呆れたように小さく溜息をつくような鳴き声をあげると、俺の膝に体をすりすりと押し付け、ゴロゴロと喉を鳴らし始める。
今度は頭から擦り寄ってくる、完全無欠の「なでて」アピールだ。
足に伝わる、温かくて愛おしい愛猫の感触。
その無防備で純粋な甘え方に、俺はついに白旗をあげた。
「……俺は何と戦ってたんだ……」
俺はコハクを抱き上げて膝に乗せ、小さな頭を優しく撫で回した。
「フシュ〜……ゴロゴロ……」
気持ちよさそうに目を細め、俺の手のひらに体重を預けてくるコハク。
人間になろうが、猫になろうが、こいつが可愛くて愛おしい我が家の同居猫であることに変わりはない。
(まあ……お尻トントンは、もう少し俺の修行が足りてからにするか……)
喉を鳴らす茶トラ猫の背中を撫でながら、俺は人知れず静かに誓うのだった。




