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マタタビの香りと理性の防波堤

 事件?のきっかけは、押入れの奥から出てきた一本の小さなスプレーボトルだった。


「ん? これなんだ……『マタタビスプレー』?」


 かつてコハクを我が家に迎えたばかりの頃、環境に慣れさせようと買ってみたものの、そのまま存在を忘れていた品だ。

 試しにキャップを開け、ソファに少しだけ吹き付けてみる。


 すると、別室にいたはずのコハクが、まるでテレポートでもしてきたかのようにシュバッとリビングに現れた。


「……っ! なにこの匂い!?」


 琥珀色の瞳が爛々と輝き、完全に据わっている。

 コハクはひょいと飛び込むと、理性を綺麗さっぱり投げ捨てたような顔で、ソファーへすりすりと顔を擦り付け始めた。


「んあぁぁ……最高……これ最高なのぉ」

「うわっ、待て待て! 落ち着け!」


 トロ顔で恍惚の表情を浮かべ、喉を「ごろごろごろごろ!」とエンジン音のように鳴らしながら全身を擦り寄せている。

 いかん、いかんいかんいかん!

 この状況は目の毒だ。


 ましてや、俺にマタタビスプレーがかかった時を想像してしまう。

──人間の姿をしたコハクが、猫そのものの勢いで俺に擦り寄っている。

──頭では「ただの猫の習性だ」と分かる。

──だが24歳の美人である。

 危ない。これは、絶対に危ない。

 俺の理性に対する、負荷が高すぎる。


 俺は、スプレーを固く封印して棚の奥深くへと押し込んだのだった。


◇


──そして、次の休日。


 平日分の疲れを癒やすべく、俺がソファでごろごろとテレビを眺めていた時のことだ。

 パタパタと足音がして、コハクがやってきた。右手になにか小さなボトルを握りしめている。


「主、ちょっといい?」

「ん? なんだ?」


 休日モードの俺が呑気に問い返すと、コハクはどこか企みを含んだような、ニヤリとした笑みを浮かべた。


「これ見つけたから、主に付けたいんだけど……いい?」

「へっ?」


 俺があっけにとられている隙を逃さず、コハクは素早い手つきで俺の胸元にスプレーを差し向け──シュッ、と一吹きした。


(……あ)


 しまっておいたはずのマタタビスプレーを、いつの間にか見つけ出されていたらしい。


 直後、コハクの表情が一転した。


「……っくふぁ」


 瞳孔がキュッと開き、目が据わる。

 たじろぐ俺の胸元に顔を近づけ、クンクンと鼻を鳴らして匂いを嗅ぎ──次の瞬間、目と口を半開きにしてうっとりとしている。


「主……アタシにさわって」

「うへっ、それはどういう……」

「だから、さわってよ」

「いや、それは激しくまずいんじゃないか……!?」


 人間の姿のまま、潤んだ瞳でのぞき込むように顔を寄せてくるコハク。

 距離が近すぎる。

 息がかかるほどの至近距離でそんな顔をされたら、俺の理性が秒単位で崩壊していく。


 すると、コハクは不満そうに「チッ」と小さく舌を打った。


「あーもう、主とマタタビの香りのマリアージュを楽しもうと思ったのに、人間の姿だといまいちなのよ。感覚がダイレクトじゃないの。だから猫の姿になって楽しみたいの。もう、早くさわってよ!」

「香りのマリアージュ? ダイレクトな感覚? う、うん……!」


 理由はどうあれ、人間の姿のままこれ以上攻め立てられるのは耐えられない。

 俺は半ば混乱しながら、コハクの華奢な肩にそっと手を触れた。


 ポンッ!


 軽い音と一瞬の白い煙。

 俺の手が触れると、コハクは茶トラ猫の姿へと変わった。


「ニャー!」


 猫になったコハクは、待ってましたと言わんばかりに俺の胸へと跳びついてきた。


……よし、これなら大丈夫だ。


 そのまま爪を立てないように上手く服にしがみつき、俺の胸元に鼻を押し当ててクンクン、クンクン。

 そして再び、目と口を半開きにしたあの大興奮の恍惚顔──マタタビトランス状態となったのだった。


「ゴロゴロゴロゴロ! フニャァァァ……!」


 そのまま、頭から背中、お腹にかけて全身を俺の胸や首元に擦り付けてくる。

 右へすりすり、左へすりすり。

 まるで大好きな毛布に顔をうずめる子供のように、実に楽しそうだ。


「ゴロゴロゴロゴロ……ニャ……ニャニャ……ニャォォーン……」


 胸の上で転がり、お腹を見せて「ニャァアン」と甘い悲鳴を上げる愛猫。

 俺はふうと深く息を吐き、冷や汗を拭った。


……これはこれで可愛いな。


 だが、これをもし、あの「人間の姿」でやられていたらと思うと恐ろしい。

 一瞬で理性がぶっ飛んで、理不尽な暴走をしてしまうところだった。


 猫の姿であれば、どれだけ恍惚とした表情で擦り寄られても「なんだかすごく楽しそうで良かったなぁ」と、平和で愛おしい気持ちだけで愛でることができる。


「コハク、気持ちいいか?」

「フニャ〜ン……」


 俺が優しく撫でてやると、コハクはますます喉を激しく鳴らし、俺の服に顔をうずめてゴロゴロと転がり続けた。


 俺はそんなコハクの背中を撫でながら思った。

 マタタビスプレーは危険物だ。

 俺の理性にも。

 コハクの尊厳にも。

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