香箱座り・人間バージョンの悲劇
休日。
リビングの陽だまりの中で、俺が文庫本を読んでいると、ふと視界の端で怪しげな動きを感じた。
見れば、コハクがリビングのラグの上で、何やら必死に身を縮めている。
普段のダボダボTシャツ姿のまま、スクワットの格好から前傾姿勢になり、自分の身体を折りたたもうと試行錯誤していた。
「……コハク、何やってんだ?」
俺が本から目を離して尋ねると、コハクはパッと顔を上げ、フンと鼻を鳴らした。
「何って……見ればわかるでしょ! 『香箱座り』の練習よ!」
「香箱座り?」
香箱座り──猫が脚を体の下に完全に折り込み、四角い箱のようになってリラックスする、あの猫特有の可愛らしい座り方だ。
「そうよ! 最近、アタシは人間姿で過ごす時間が長いでしょ? でもね、元猫としての『心の安らぎ』を忘れたくないの。だから、人間の身体でも完璧な香箱座りを再現しようとしてるのよ!」
「なるほど……。でも人間の身体の構造上、無理がないか?」
「できるわよ! アタシを誰だと思ってんの! 24歳の洗練された美少女猫よ!?」
コハクは胸を張り、再びラグの上で体勢を整え始めた。
「いい? 香箱座りの極意はね、手と足の先を完全に体の下に収納することにあるの。こうして……こうやって、体を被せて……その下に……っく!」
コハクは前屈みになり、必死に身体を伏せようとしている。
だが、人間と猫は骨格がまったく違う。関節の可動域も狭い。
身体を足に被せようとしても、そのままでは曲がらない。
「……んーっ! ぬぬぬ……っ! なんで曲がらないのよ! 関節どうなってんの!?」
「いや、人間の関節はそんな風に畳めないだろ」
「うるさいわね! 集中してんだから邪魔しないで!」
荒い息をつき、顔を真っ赤にしながら格闘すること約十分。
「できたわ……! これが、人間界における完璧な香箱座りよ……!!」
コハクが誇らしげに叫んだ。
俺は本を置いて、その「完璧な香箱座り」とやらをじっくりと観察した。
「どうよ! この四角くまとまったフォルム! 完璧でしょ!?」
そこにいたのは──
膝を抱え込み、両腕で足首をしっかりガードし、顎を膝に乗せて丸くなっている、どこからどう見ても……
「……それ、ただの体育座りだな」
「違うわよ!! どこが体育座りよ!!」
コハクはガタッと立ち上がり、真っ赤になって抗議した。
「体育座りは体育の時にするやつでしょ! アタシがやってるのは、魂の香箱座りなの! ちゃんと手が胸の下に収納されてたじゃない!」
「されてないされてない。膝を抱えて丸くなってただけだ。体育館の床で先生の話を聞いてる小学生そのものだったぞ」
「キーッ! 違うわよ! 主の目が腐ってるのよ!」
膝を抱えて丸くなり、ラグの上で身もだえするコハク。
普段のダボダボTシャツ姿で膝を抱えている姿は、どこからどう見ても体育の授業で先生の話を聞いている小学生にしか見えない。
「だから言っただろ、人間の骨格じゃ無理なんだって」
「嫌! アタシは猫としてのプライドがあるの! なんとしてでも人間姿で香箱座りを完成させるの!」
頑ななコハクを見かねて、俺はふとアイデアを思いついた。
「じゃあさ……こうしたらどうだ?」
俺は正座をし、そのままぐっと上半身を前に倒して、両腕を胸の下に深く折りたたんで伏せてみせた。
「これなら腕も隠れるし、伏せた猫っぽく見えないか?」
「……あっ! それよ! 主、天才じゃない!」
コハクは目を輝かせると、さっそく俺の真似をしてラグの上に正座し、そのまま前にペタッと倒れ込んだ。
しかし──
「足先が……後ろに向いてて、なんか冷たいんだけど」
「正座してるからな。足の甲が床に押しつけられてるんだろ」
「猫なら肉球を身体の下にしまって、ぬくぬくできるのに……!」
お尻の後ろから見える足の指を動かしながらコハクの不満は続く。
「それに……これ、前が見えないわ」
「頭上げればいいじゃん」
「上がるわけないでしょ! 首の関節の構造が違うのよ! 人間がこの体勢で顔だけ前に向けると、首が変な方向に折れそうになるの!」
コハクの顔がラグに埋まって、声がボソボソとこもっている。
「なるほど、猫は首がぐにゃっと曲がって前を見られるけど、人間は地面に顔を擦りつけるしかないのか……」
「……これ、香箱座りっていうか、完全に罪を許してもらうための土下座ね」
「見た目もアレだし、首も足も辛いな」
「みゅぅ……でも、諦めたくない……!」
◇
意地になったコハクとあれやこれや協議した結果、俺たちはある『妥協案』に辿り着いた。
「よし、起きてる時は諦めて、昼寝の時だけこのスタイルでチャレンジしてみよう」
俺は寝室からふかふかの枕と毛布を持ってきた。
コハクの頭の下に枕を敷いてやることで、首を無理に曲げなくても額や顎を乗せて楽に伏せられるようにする。
そして、冷え切ってしまう足元には毛布をしっかりと巻きつけ、保温対策を施した。
「どうだ、コハク?」
「……あ、これなら楽かも。首も痛くないし、お布団であたたかいわ……」
枕に顔を半分埋め、両腕を胸の下に抱え込んで伏せるコハク。
猫の香箱座りとはかなり違うが、本人は「人間版・香箱座り(睡眠特化型)」としてご満悦のようだ。
「ふふん、これなら完璧ね……すやすや……」
安心したのか、コハクはそのまま数分もしないうちに、規則正しい寝息を立ててお昼寝に入ってしまった。
◇
──約一時間後。
「……ん、ふにゃ……」
目を覚ましたコハクが、うっすらと目を開けた。
俺は本を読む手を止め、「お、起きたか?」と声をかける。
「主……アタシ、完璧な香箱座りでぐっすり眠れたわ……」
ドヤ顔で自慢しようとしたコハクだったが、次の瞬間、その表情が固まった。
「……え?」
「どうした?」
「……う、動かない」
「は?」
コハクの顔がみるみるうちに青ざめていく。
「足! 足が動かないの! なんか……足の感覚が全然ないのよ!?」
そう、長時間正座の体勢で体重をかけ続けたせいで、コハクの両足は完全に痺れ切っていたのだ。
「主! 助けて! 足が痺れて起き上がれない! なにこれ、足がビリビリして気持ち悪いーっ!」
助けを求めてバタバタと上半身だけをもがくコハク。
さすがに可哀想だとは思ったが、あまりにも面白い反応をするので、つい悪戯心が湧いてしまった。
「仕方ないなぁ。どれどれ……」
俺はしゃがみ込むと、毛布から飛び出しているコハクの足の裏を、人差し指でツンツンと突っついた。
「にゃああああああああっっ!!????」
部屋中にコハクの凄まじい絶叫が響き渡った。
「やめて! 触らないで! ビリビリって! 今そこ触るの絶対にダメなやつーーーっ!!」
「えー? どれどれ、どこが痺れてるんだー?」
「ツンツンすな! 悪魔! 下僕のくせに悪魔ーーーっ!」
涙目になりながら足をバタつかせ、ラグの上で芋虫のようにゴロゴロと転がるコハク。
「あーっ! もう二度と人間姿で香箱座りなんてしないわよ! 主のバカーーーッ!!」
しばらくの間、正座の痺れと俺のツンツン攻撃に悶絶するコハクの悲鳴が、賑やかに響き続けるのだった。




