間章 四十通目の返事
本編に入れようとして入れ忘れたお話。
夜の水光宮は静けさに満ちている。
昼間は人々が行き交い、使用人達が忙しく働いているが、夜も更ければ聞こえてくるのは運河を渡る風の音と水の流れる音くらいのものだ。
フォルシオは流澄館から移動して臨潮閣まで赴くと、窓辺に立ち、夜の景色を眺めていた。
使用人には言えないが、彼らが使う地下通路は、フォルシオが人前に出ることなく安全に臨潮閣まで移動出来る抜け道でもあるのだ。
夕食の席でアリエーチェは眠そうにしていた。無理もない。朝から支度をし、皇宮へ赴き、皇帝との謁見を終えたのだ。本人は気付いていないだろうが、緊張の連続であったことは間違いない。
そもそも、ここはまだ彼女にとって異国の地であり、無意識に気を張り続けている真っ只中である。
とは言っても、謁見の間で語学の話になった途端、調子を取り戻していたけれど。
「本当に凄いよね」
誰に聞かせるでもなく呟いた声は、無人の室内に溶けていく。
アリエーチェは自分を過小評価している節があった。三年前のほんの僅かな邂逅の時からそうだった。
語学が出来ることも、芸術に深い知識を持っていることも、それを成し遂げるために努力を続けられることも。彼女にとっては当たり前のことで評価に値しないと考えている。
だが、それは決して当たり前のことでもなければ、当然のことでもない。
三年前、初めて届いた報告書を読んだ時に目を疑った。
レグソン王国マラッソ侯爵令嬢アリエーチェ。語学に秀で、各国の書物を原語で読む。レグソン王国では珍しく政治や文化への関心も高い。
そして何よりも、学ぶことを楽しんでいると彼女に教えを与えた師たちは、声を揃えて言ったそうだ。
その一文が妙に心に残った。楽しいから学ぶなんて、言葉にしてしまえば単純で陳腐なものになってしまう。
しかしながら、それを続けられる人間は驚くほど少ないことをフォルシオは知っていた。
知識を求める者は多い。名誉を求める者もいる。出世のために、果てはお金のために学ぶ者もいる。だが純粋な好奇心だけで歩き続けられる者は稀だった。
だから興味を持ち、彼女についてを調べ、そして気付けば求婚状を書いていた。三歳年下の、まだ十五歳だった少女に求婚なんて自分でも驚いたが、彼女ならば同じ世界を見られるかもしれないと思ったのだ。
受け入れられるとは思っていなかった。
一度だけ仕事の関係で赴いた国で開かれた夜会、そこで少しだけ話しただけの帝国皇弟から突然手紙が届くだけでも衝撃のはずだ。
ただまあ、断ったのは本人ではなく彼女の父親だったけれど。
まだ十五歳で、帝国の皇族に嫁ぐには幼いし、不釣り合いであると尤もらしい言葉が羅列された手紙。
そこで諦められたなら良かった。それなのに手は新たな紙を取り出し、文字を綴った。恐らく、彼女の父親と一番手紙のやり取りをしたのではないだろうか。
一ヶ月は二十八日。それが十三ヶ月と、一年の終わりと始まりの日である星冠日。毎月始まりの日に手紙を送り、返され。三十九の手紙を送り出し、三十九の断りの言葉で帰ってきた。
諦められたなら良かったのに。
これが執着なのか愛なのか、それとも混ざりあって別の何かに変わったのか、最早フォルシオにも分からなかった。ただ、アリエーチェを求めていた。
彼女のことを知りたくて、調べて、彼女が他の誰かに恋をしているのを知って嫉妬した。愛することも恋することもしないのに、アリエーチェがそばにいることを当然のように受け止めている男が憎かった。
僅かな希望を胸に、誰からの求婚にも応えないことを彼女の父が許しているから、フォルシオの手元には三十九の断りが届いていた。
諦めた方が良いのか。しかし、もうそんな段階は超えてしまった。
そしてまた、四十通目の手紙を綴る。これで駄目なら諦めようか。少しだけ弱った心を救ったのは四十通目の返事。
アリエーチェとの見合いの場を設けるとの返事に、現実かを疑い、そして直ぐに動いた。仕事も何もかも放り投げた。
フォルシオがただ一人を求めて居ることは帝都貴族の間では有名で、外交庁に行けばさっさと迎えに行けと蹴り出された。彼らなりの応援だったのだろう。
長兄の元に飛び込んで一筆に空白の書類に印章を押してもらい、未来の妻を連れて帰ると宣言して舟に飛び乗った。
リリアーナとセドリックにはアリエーチェの為の準備をしてもらい、そしてやっとアリエーチェを手に入れた。
今はまだこの気持ちは伝えない。
アリエーチェは初めての恋を悲しみで終えた。その気持ちの整理がつかないまま、この気持ちを押し付けるなど出来やしない。
だけど、彼女の心にフォルシオが根付いた時、もう逃がすことは出来ない。つもりもない。
帝国で、水光宮で、アリエーチェを幸せにする。
焦りは禁物だ。ゆっくりと彼女の中にフォルシオという存在を染み込ませる。水が体に必要なように、フォルシオがアリエーチェに必要不可欠となるように。
今はただ、彼女が笑って過ごせる時間を少しずつ増やしていければ、それでいい。
「おやすみ、アリエーチェ」
届くはずもない言葉を夜へ落とす。月光に照らされた水光宮は穏やかな静寂に包まれていた。
第七章の後に入れる予定が、入れ忘れてしまっていました。




