第1話:空間拡張実験における予期せぬ境界逸脱
山あいの谷底にへばりつくようにして建てられた徳島極限環境実験キャンパスの夕暮れは、驚くほど唐突に訪れる。
西側の険しい稜線に陽が落ちると、つい先ほどまで白く反射していたコンクリートの建屋群は一斉に鉛色へと沈み、肌を刺すような湿った冷気が吉野川の川霧とともに這い上がってきた。敷地の外周を取り囲む錆びたフェンスの向こうでは、ヒグラシの声すら途絶え、ただ遠くの送電鉄塔が風を切る低周波の唸りだけが低く響いている。
定時である午後五時を告げる電子チャイムが、誰もいない構内通路に虚しく鳴り響いて消えた。
大阪空想科学大学の本部がある大阪市内のキャンパスなら、ここからが学生たちの賑やかな時間帯だろう。講義を終えた学部生が駅前の居酒屋へ繰り出し、サークル棟から下手なギターの音が漏れてくるはずだ。しかし、この徳島キャンパスに学部生の姿は一人もない。ここは、街中では絶対に回せない大電力を食う実験、危険な高圧ガス、あるいは強烈な振動と電磁ノイズを伴う「学内の厄介な研究」をまとめて隔離するために作られた、文字通りの僻地研究村だった。
キャンパス内の生協購買は週に三日、昼休みのわずか一時間半しか開かない。学食のシャッターはとっくに下りており、事務棟の職員たちは定時と同時にタイムカードを切り、阿南市街の自宅へと軽自動車を走らせて帰ってしまった。夜になれば、残された研究者たちを待っているのは、管理棟の片隅にある賞味期限の怪しいカップ麺自販機と、冷めきった缶コーヒーだけである。
旧加速器施設の分厚い遮蔽壁をそのまま転用した「第3境界実験棟」の地下二階。
外光の届かない無機質なコンクリート打ち放しの廊下を、博士課程一年の三橋涼香は、底のすり減ったサンダルを引きずりながら歩いていた。手には、さっき事務棟の裏手で拾ってきたばかりの冷たいペットボトルのお茶が二本。廊下の蛍光灯は何本か間引きされており、チチチ……と不規則な放電音を立てている。
「先生、事務の山下さん、もう帰りましたよ。『今夜の実験でブレーカー落としたら、明日の朝まで復旧の手続きしませんからね』って、かなり本気で釘刺されました」
スチール製の重い引き戸をガラガラと開けながら、三橋は実験室の奥に向かって声をかけた。
天井高が四メートル以上あるその部屋は、およそ大学の研究室というよりは、中小企業の町工場か変電施設の保守ピットのような有様だった。壁面には太い高圧配線用ケーブルが何本も黒い大蛇のように這い回り、床にはラックマウント型のオシロスコープ、大容量キャパシタバンク、そして液体窒素の配管が所狭しと並んでいる。部屋の中央には、かつて加速器のビームラインを通すための遮蔽区画として使われていた、奥行きわずか三メートルほどのコンクリート小部屋――通称「カプセル室」の重厚なドアが鎮座していた。
そのドアの前で、ラックから引き出されたリボンケーブルの束に顔を突っ込むようにしていた男が、無造作に頭を上げた。
白衣の袖口を黒いオイルと導電グリスで汚した男――大阪空想科学大学・時空構造境界工学研究室を率いる蓮見恭介教授である。ボサボサの髪に無精髭、縁の細い眼鏡の奥の眼光だけが、数日間の徹夜を感じさせない異常な冴えを見せていた。
「山下君は心配性だな。キャンパス全体の受電盤を飛ばすようなヘマはせんよ。今回は第一種実験室の専用受電ラインから直接引いている。飛ぶとすれば、この棟の直上にある変電トランスのヒューズだけだ」
「それ、十分に大惨事ですからね! 先週もプラズマ研の大型パルス電源が落ちて、あっちの冷凍機が止まりかけたんですから!」
机に積まれた実験ノートの山を避けてお茶を置いた三橋の背後から、ラックの裏側で配線テスターを当てていた修士二年の佐伯大樹が、細身の身体を折り曲げるようにして這い出てきた。作業着の膝には白い石膏粉がついている。
「三橋さん、無駄ですよ。教授の耳には『実験を止めろ』って日本語は届かない仕様になってますから。それより先生、共振キャパシタ側のプリチャージ、予定の三千ボルトまで上がりました。リップルノイズも許容値のコンマ二パーセント以下に収まってます。いつでもいけますよ」
佐伯が手元のタブレット端末を叩きながら報告する。
佐伯も三橋も、学部時代に「徳島行き」という過酷な配属条件を知りながら、蓮見の提示した突拍子もない研究テーマに惹かれてこの山奥までついてきた物好きの生き残りだった。同期の連中が大阪や東京のクリーンなオフィスで就職活動に励んでいる間、彼らは連日、油と埃にまみれてトルクレンチを握り、オシロスコープの波形と睨み合いを続けている。
「よし。佐伯、計測系のトリガを自動シーケンスに回せ。三橋、内部圧力計と熱電対のログを走らせろ」
蓮見は手袋をはめ直し、手元にある自作の操作コンソールへと向かった。分厚いアルミ削り出しのパネルには、無骨なトグルスイッチと大型の緊急停止ボタンが並んでいる。
「今回のテスト目的を再確認する」
蓮見の低く落ち着いた声が、静まり返った地下室に響いた。
「対象は、ドアで密閉された容積約三十立方メートルの閉鎖コンクリート区画だ。われわれが開発した『第1段階・局所空間構造励起パルス発生装置』を用い、内部の計量テンソルに極微小な摂動を与える。目的は、外部寸法を変えることなく、内部の有効容積を理論上十倍――約三百立方メートルに等価拡張することだ」
「いわゆる、外側より中身の方が広い部屋、ですね」
佐伯が緊張を紛らわせるように軽口を叩く。
「SFのガジェットとしては古典的だが、工学的には空間の幾何構造に対する直接的な応力付加実験だ。成功すれば、大容量蓄電施設や危険物貯蔵庫のフットプリントを劇的に圧縮できる。……もっとも、理論値通りにいけばの話だがな」
蓮見は短く息を吐き、主電源のブレーカーを押し上げた。
ドン、と床下から重い地響きのような励磁音が立ち上がった。部屋の隅に置かれた大容量キャパシタの冷却ファンが甲高い金属音を立てて回転を速め、ラックに並んだ数十台のインジケーターが一斉に緑から橙へと遷移していく。
「シーケンス開始まで、十、九、八……」
三橋が硬い声でカウントダウンを読み上げる。
「パルス成形ライン電圧、正常。放電ギャップスイッチ、レディ」
佐伯の指が、非常停止ボタンのカバーから離れた。
「三、二、一……励起パルス、印加!」
バチィィィンッ!
大気を引き裂くような鋭い放電音が実験室内に炸裂した。一瞬、室内の蛍光灯が消し飛ぶように明滅し、視界の端が青白い光に焼かれる。床から突き上げるような微小な振動がコンクリートを伝わり、三橋の足首を痺れさせた。
キィィィィン……というキャパシタの放電残響音が、次第に回転を落としていく。
室内に、焦げたオゾンと絶縁油のツンとした匂いが立ち込めた。
「……っ、停電は!? 受電盤は生きてます!」
三橋が真っ先にモニターへ飛びついた。
「メイン電源、ドロップなし! キャンパス側のヒューズも無事です! 山下さんに怒られずに済みました!」
「装置のステータスは?」
蓮見はコンソールに張り付いたまま、眼鏡を押し上げた。
「パルス波形、ピーク電圧で予定値から十二パーセントのオーバーシュートを記録。放電時間は規定通りですが……先生、キャパシタバンクのエネルギー消費量が計算と合いません。投入した電力の八割以上が、どこかへ吸い込まれたみたいに消えてます」
佐伯が困惑した表情で画面を指差した。
「熱損失か?」
「いえ、放電抵抗の温度上昇は平熱レベルです。ジュール熱として逃げた形跡がありません。文字通り、空間のインピーダンスに食われてます」
「……よし。内部のセンサーを当たるぞ」
蓮見は作業台から大型の六角レンチを掴み取ると、躊躇なくカプセル室のドアへと歩み寄った。
そのドアは、かつての加速器施設時代に取り付けられた、厚さ五十ミリほどの鋼製防火・遮蔽ドアだ。鋼板の内部に耐火断熱材がぎっしりと充填された特注仕様で、ずっしりとした手応えはあるが、精密に調整されたヒンジのおかげで人手でも確実に開閉できる。幅八百五十ミリ、高さ二千ミリ。人間が一人、体をかがめずに通れる標準的な通用口の規格だった。
「先生、気をつけてください。内部の気圧計、針が微妙に揺れてます」
三橋が警告の声を上げる。
「分かっている。内部容積が十倍に膨らんでいれば、ボイル=シャルルの法則に従って内部気圧は十分の一気圧まで急減圧しているはずだ。扉を開けた瞬間、猛烈な吸気流が発生する。佐伯、後ろで扉を支えろ」
「了解です!」
佐伯が分厚い革手袋をはめ、ドアの把手金具に体重を預けた。
蓮見が六角レンチをレバーの隙間に噛ませ、ゆっくりとトルクをかける。
ギィ……と錆びたグリスが軋む音が地下室に響く。カチリ、と内部の重いカンヌキが外れる金属音がした。
「開けるぞ。構えろ」
蓮見が下側のレバーを一気に押し下げ、重い鋼製ドアを手前に引いた。
三橋と佐伯は、猛烈な気圧差による突風を警戒して身を縮めた。
しかし――。
吹き荒れるはずの吸気流は、起きなかった。
代わりに吹き込んできたのは、ひやりとした、しかしどこまでも柔らかく湿り気を帯びた「風」だった。
そして、匂い。
コンクリートの粉塵と焦げたオイルが支配していた地下二階の空気が、一瞬にして塗り替えられた。それは、雨上がりの草むらを靴底で踏み躙った時のような、鮮烈な青臭い植物の匂いと、豊潤な腐植土の混ざり合った、圧倒的な「外」の匂いだった。
「……え?」
三橋の手から、クリップボードが滑り落ちそうになった。
開かれた幅八百五十ミリのドアの向こうに広がっていたのは、十倍に広がったはずのコンクリートの部屋ではなかった。
陽光だった。
視界が真っ白に焼けるほどの、まばゆい光が地下室へと雪崩れ込んできた。
目が慣れるにつれ、ドアの枠によって切り取られた四角い視界のなかに、信じがたい光景が結像していく。
そこには、地平線まで波打つように続く、瑞々しい緑の草原が広がっていた。
風が吹き抜けるたび、草の波が銀色に裏返りながらサササ……と音を立てて揺れている。遠くには、地球上のどの山並みとも知れない、青く霞んだ広大な原生林がどこまでも連なり、見上げる空は、徳島の曇った夕暮れとはまるで違う、吸い込まれそうなほど深い紺青に晴れ渡っていた。太陽のような強烈な光源が、視界の右上、信じられないほど高い位置から地上を照らしつけている。
ドアの敷居――わずか三センチの鋼鉄の段差を境にして、手前は埃っぽい地下室の灰色の床。向こう側は、瑞々しい露を宿した未知の野草が群生する赤土の大地だった。
「……な、に、これ……」
佐伯が口を半開きにしたまま、ドアのヘリを掴んで固まった。
「壁は……? カプセル室の奥のコンクリート壁はどこ行ったんですか!? ていうか、ここ地下二階ですよ!? 天井の上に、第一実験室とキャンパスのグラウンドがあるはずでしょ!?」
「騒ぐな、佐伯。計器から目を離すなと言ったはずだ」
蓮見の声は、信じられないほど低く、冷え切っていた。
三橋はおそるおそる蓮見の横顔を見上げた。世紀の発見に歓喜している様子など微塵もない。むしろその眉間には、これまでに見たことがないほど深い皺が刻まれ、苦々しげに口角を歪めていた。
「せ、先生……? これ、大発見なんじゃ……! 空間拡張どころか、空間に穴が開いて――」
「バカ者が」
蓮見は舌打ちとともに吐き捨てた。
「成功なものか。大失敗だ。ただの重大なバグだぞ」
「バグって……」
「われわれが設計したのは『内部計量テンソルの局所的変形による閉鎖空間の自己相似的拡大』だ。外部の別座標と接続する回路など、一行たりとも数式に組み込んでいない。境界条件の拘束に失敗し、励起した空間ポテンシャルが近傍の位相勾配に引きずられてパンクしたんだ。要するに、風船を膨らませようとして針を刺し、隣の部屋に突き破ったようなものだ」
蓮見は吐き捨てるように言うと、スタスタとコンソールへ戻り、引き出しから黄色い立ち入り禁止用のトラロープと、作業用の大型クランプを取り出してきた。
「佐伯、呆けてないで扉を固定しろ。クランプで床のアンカーボルトに締め付けろ。風や振動で勝手に閉まったら、向こう側の状態が観測できなくなる」
「は、はいっ!」
佐伯が慌ててクランプを受け取り、開かれたドアの蝶番側に噛ませてガチガチとラチェットを回した。
「三橋、ボーグワン(環境計測用小型ドローン)の電源を入れろ。有線給電リールを繋げ。絶対に無線で飛ばすなよ、電波伝播の境界条件がどうなってるか分からん」
「わ、分かりました!」
三橋は我に返り、実験台の下から樹脂製のアタッシュケースを引きずり出した。中に入っているのは、屋外の火山ガス調査や配管検査用に研究室で自作した、四軸のクアッドコプター型ドローンだ。機体の中央には、大気組成センサー、ガイガーカウンター、微気圧計、サーモグラフィがぎっしりと詰め込まれている。
細いテザーケーブルを機体の給電ポートにカチリと差し込み、プロペラの回転テストを行う。キーンという高周波のモーター音が地下室に響いた。
「ドローン、全システムグリーン。テザー給電、通信リンク確立しました」
「よし、ゆっくり出せ。扉の敷居から一メートル先でホバリング。高度は地上五十センチを維持しろ」
蓮見の指示に従い、三橋がコントローラーのスティックを慎重に押し上げた。
ドローンがふわりと浮き上がり、地下室の冷たい空気の中を前進する。
そして――。
幅八百五十ミリの枠組みを通り抜けた瞬間、ドローンの機体がふっと数ミリ沈み込み、すぐに姿勢制御用ジャイロが唸りを上げて水平を取り直した。
「境界通過を確認……! 通信途絶しません、テザー経由の生データ、全部生きてます!」
三橋が叫ぶように言った。操作画面の横に配置されたモニターに、未知の世界のリアルタイムデータが滝のように流れ落ちていく。
「気圧を読め」蓮見が即座に命じる。
「気圧……一〇一三ヘクトパスカル! ほぼ一気圧です! 地球の海抜ゼロメートル地点と誤差レベルで一致!」
「気温、湿度は」
「気温、二十一度。湿度、六十四パーセント。……極めて快適な、初夏の気候です」
「放射線量はどうだ。ここが核実験場や高線量地帯のど真ん中だったら、今すぐ扉を爆破してでも塞がねばならん」
「バックグラウンド放射線量……毎時零点零八マイクロシーベルト。キャンパスの地上より、むしろ低いくらいです。有害なガンマ線、中性子線のバースト、一切検知されません!」
「大気組成を出せ。酸素と有毒ガスだ」
三橋はキーボードを叩き、質量分析センサーのグラフを展開した。画面を見つめる彼女の瞳が、再び大きく見開かれる。
「窒素、七十八パーセント。酸素、約二十一パーセント。アルゴン零点九、二酸化炭素零点零四……。硫化水素、一酸化炭素、シアン化水素、すべて検出限界以下。……先生、これ……」
三橋は数値を指でなぞりながら、慎重に言葉を選んだ。
「大気組成の主要比率を見る限り、人間が呼吸可能な環境です。もちろん、未知の胞子や微小病原体、極微量の有害成分がないかは精密分析にかける必要がありますが、少なくとも即座に窒息や急性中毒を起こすような大気ではありません」
実験室の中に、奇妙な沈黙が落ちた。
ラックに積まれた計測機器の冷却ファンが回る音だけが、やけに大きく聞こえる。
扉の向こうでは、見知らぬ形状の野草が、そよ風に揺れていた。見渡す限りの緑と青。排気ガスの煤煙も、アスファルトの照り返しも、人工物の角ばった輪郭も、そこには何一つ存在しない。
「……信じられない」
佐伯が、ドアの枠に手をかけたまま呟いた。
「僕たち、本当に未知の空間に穴を開けちゃったんですか……? ここ、四国の山奥ですよ? 徳島の地下ですよ?」
「まだ異世界と決まったわけではない」
蓮見は淡々と言ったが、その声にはわずかな緊張が混じっていた。
「地球上のどこか未開の土地――南米のアマゾン奥地か、アフリカの内陸部、あるいはどこかの無人島と空間が短絡した可能性もゼロではない」
「でも先生、太陽の位置を見てください」
三橋がドローンの上方カメラの映像を指差した。
「今、徳島は午後五時半を過ぎて日没直前です。でも向こうは、太陽が南中高度に近い角度にあります。経度がまったく合いません。それに……この植生データ、見てください」
ドローンの高解像度カメラが足元の草花をズームアップしていた。
三つ葉のように見えるが葉脈が同心円状に広がっているシダ状の植物。茎が淡い銀色に光る細長い草。どれも地球上の植物図鑑で見たことのない形態をしていた。
「……手持ちの植物データベースと照合。一致率、十二パーセント以下。該当なし、です」
三橋の報告に、蓮見は短く息を吸い込み、吐き出した。
「……徹夜になるな」
蓮見は白衣のポケットから油性のフェルトペンを取り出すと、ドア枠のすぐ脇、コンクリートの壁面に迷いのない手つきで太い文字を書き殴った。
『事象発生時刻:十七時四十二分。接続口有効開口寸法:幅850mm、高さ2000mm。初期境界維持電力:定常パルス維持モードへ移行』
「先生、どうするんですか? 本部の学部長や、大学の安全管理委員会に今すぐ連絡を入れますか?」
佐伯の問いに、蓮見は即座に首を横に振った。
「報告はする。だが、今じゃない」
「えっ……?」
「いいか、事故報告というのは、現象発生時刻、境界の物理条件、大気組成、そして接続の安定性といった最低限の一次データを揃えてから上げるものだ。何ひとつ数字を押さえていない段階で『扉を開けたら向こうに草原がありました』などと連絡して、安全管理委員会が何を判断できる? 『蓮見が山奥で頭を狂わせた』と処理されて現場を即時封鎖されるか、意味不明な一次情報で関係各所に無用なパニックをばら撒くだけだ。研究者なら、まずは測定して客観的な事実を固めるのが筋だろうが」
蓮見はドローンのコンソールを覗き込み、矢継ぎ早に指示を飛ばした。
「ドローンを高度十メートルまで上昇させろ。半径五十メートルの地形マップを作れ。佐伯、お前はキャンパスの共用分析棟からポータブルの環境放射線測定器と、大気サンプリング用の真空シリンジを借りてこい」
「あ、共用棟ですか? でももう六時過ぎてますよ。施錠されてるんじゃ……」
「徳島キャンパスを舐めるな。あそこの分析棟に夜間警備員などおらん。管理カードを通せば院生でも二十四時間入れる。どうせ他の研究室の予約など入っていない、ガラ空きだ」
「あ、そうでした。徳島ですからね」
佐伯は苦笑いしながら作業着の襟を正し、地下室の引き戸を開けて駆け出していった。
「三橋、お前はテザーケーブルのテンションを監視しつつ、一分間隔で大気圧と地磁気ベクトルのログを取り続けろ。境界を挟んだ空間の歪み――潮汐力のような剪断応力が発生していないか、歪みゲージの波形を凝視しておけ」
「了解です!」
三橋の指先が、再び目まぐるしくキーボードの上を走り始めた。
地下の実験室を満たすのは、空調の低い唸りと、計器のビープ音、そして時折、開かれたドアの向こうから吹き込んでくる、名も知らぬ鳥のようなかすかな鳴き声だけだった。
夜が更けていく。
外の世界では、徳島の深い山々が完全な闇に包まれ、冷え切ったキャンパスの街灯がぽつりぽつりと灯り始めていた。自販機の明かりだけが寒々しく浮かぶ静まり返った研究村の地下で、三人の人間と一台の機械だけが、世界のほつれ目を縫い止めるようにして、黙々とデータの数字を刻み続けていた。
深夜二時。
共用棟から戻った佐伯が抱えてきた使い捨ての紙コップに、ぬるいインスタントコーヒーが注がれた。
ドローンは長時間のローター連続運転によるモーター過熱を避け、地表付近の温湿度および微気圧の定点観測に切り替えるため、扉から数メートル先の草むらへと着陸させていた。
「先生……ドローンの全天カメラが捉えた星空の輝点データを、既知恒星カタログのデータベースとパターン照合させました」
三橋が疲労のにじむ瞳をモニターから離し、蓮見を見上げた。
「結果は?」
「……該当パターン、なしです。視等級上位の主要な恒星配置パターンを抽出して球面座標系の全方位照合をかけましたが、既知の天球データと幾何学的な相関を示す領域が一つも検出されません。地球上から観測できる天球パターンとは完全に不一致、という判定が出ました」
実験室の空気が、ふたたび張り詰めた。
「……やはり、地球の裏側ですらない可能性が跳ね上がったな」
蓮見は紙コップのコーヒーを一口啜り、苦そうに顔をしかめた。
「どうやら、とんでもないゴミを抱え込んでしまったらしい」
そう呟きながらも、蓮見の眼鏡の奥の瞳は、コンクリートの壁に穿たれた幅八百五十ミリの「穴」を、獲物を狙う肉食獣のような鋭さで見据え続けていた。
その足元、地表定点観測を終えて草むらから地球側へと手作業で回収されたドローンの着陸脚には、黒い湿った未知の土と、ちぎれた植物の繊維が、誰にも気づかれないまま擦り切れるように付着していた。




