九百九十九枚の極上品
千里が足を止めたのを見て、鍛冶屋の眼球が狡猾に回った。
「俺はかつて兵士だった。気の合う仲間と戦場に立って、互いの剣で死角をカバーし合っていた。
二人の連撃を止められる奴はいなかったよ。どちらかが危機に陥れば、もう一方は何をおいても必ず助けに向かう。
それは信頼であり、誓いでもあったんだ」
鍛冶屋は言葉を区切り、過去を懐かしむように目に涙を滲ませた。
「あの羽根のマントを羽織った者……『無欠之師』と対峙した、あの時までは。
俺の武器が砕けた。その刹那、同伴者が斃れるのをただ見ていることしかできなかった。
俺は……それ以来、剣を握れなくなった。俺一人じゃ、もはや何も成し得ない」
鍛冶屋は手にした軍刀を強く握り込み、声を震わせた。
「その時、俺は誓ったんだ。こんな悲劇は、他の誰にも起こさせないと。だから兵士を辞め、武器を鍛え始めた。
俺が鍛え上げた刀剣には、俺の贖罪と、果たせなかった守りの心が込められているんだ!」
鍛冶屋は悲痛な面持ちで刀を千里に差し出す。千里はその気迫に圧倒されていた。
「これは単なる刀じゃない、命の重さを背負った刃だ。
握る以上、こいつを完全に信じ切っていい。お前を生かすのに十分なほど頑丈だ……少なくとも、あの頃の俺よりはな」
千里はしばし沈黙し、そしてゆっくりと軍刀を受け取った。
「信頼と、誓い……」
直後、鍛冶屋はどこからともなく年季の入った剣帯を取り出した。
「兄弟、お目が高い! こいつは俺の亡き兄弟分の遺品だ、特別にくれてやる、これで絆も完璧ってもんさ!
この刀、本来は九百九十九枚だが、お前のその共感に免じて、手持ちの九十八枚を頭金にしてやろう!
残りのツケは、これからゆっくり返してくれりゃあいい!」
千里は思わず手持ちの九十八枚の金片を相手に渡していた。
――あんな悲話を突きつけられちゃ、さっきまで小銭を出し渋ってた自分がケチに思えてくるな。
――こういう金なら、払ってちっとも惜しくねえぜ!
だが、金片が手から離れた瞬間、千里は眉をひそめた。
「……ん? おかしいな。なんで俺の所持金がぴったり九十八枚だって知ってんだ?」
鍛冶屋は視線を逸らし、不自然なほど大きな咳をした。
「ゴッホゴホ! 些末なことだ! そんな枝葉末節が、今結ばれた俺たち兄弟の絆に敵うわけがねえだろう!」
「それは……」千里が言い返すのを遮り、鍛冶屋がまくしたてた。
「それよりも兄弟! お前、まさか無防備なまま出歩くつもりじゃないだろうな?
大食要塞の界隈じゃ、質の悪い毒が蔓延ってるんで悪名高くてな。
この世で最強と謳われる『最上位列』の連中ですら軽視できない『滅びの水』。その原料の一つが、この地の毒物だ。
毒消しだよ! 毒消しこそが至高、今お前が真っ先に重視すべき代物だ!」
千里は深くため息をついた。
「はあ、俺だって重視したいのは山々だが、この俺に毒消しを買う金があるように見えるか?」
鍛冶屋は千里の脇腹を肘で軽く小突いた。
「兄弟、頭を使えよ! ここは要塞だぜ、一攫千金を狙って野外へ出る連中なんざごまんといる。
適当な連中に紛れ込んで、いざって時はそいつらの予備薬に便乗すりゃあいいんだよ!」
「名案だな。他人の備えにタダ乗りするような真似は、俺の得意分野だぜ」千里はポンと指を鳴らして賛同すると、感心したように眉を上げた。
「それにしても、ここの薬は確かに効き目が抜群だな。
俺なんかこの前、化物にズタボロにされて、全身くたばりかけだったんだぜ」
千里はそう言いながら、ぐにゃりと体をうねらせ、大げさに崩れ落ちるような姿を演じてみせた。
「結果、ここで目を覚ましたら傷が全部綺麗さっぱり治ってたぜ! 痕一つ残っちゃいねえ!」
鍛冶屋はそれを聞くと真面目な顔になり、すぐに首を横に振った。
「変な誤解はするな。ここの普通の薬は……お前が言うほど魔法みたいな効き目はねえ。
その話のような治り方をするなら、『芽神の血』しかありえねえ」
「神?」千里が不思議そうに首を傾げると、鍛冶屋は手を振って打ち消した。
「本当に神様がいるわけじゃねえ、ただの大げさな呼び名さ。芽神っていう生き物がいてな。
俺たちが今使ってる金片、実はあれ、ごく微量の『芽神の血』を混ぜて作られた特殊なお金なんだよ。
あれはただの金じゃねえ、命そのものだ。金片は水には強いが、温かい血に触れた途端、一瞬で溶けて血肉に混ざり、傷の再生を促すんだ。
使う金片の枚数が多いほど、治癒効果も跳ね上がる!
とはいえ、お前の言うような全身のひどい傷を痕一つ残さず治すとなれば……軽く数十万枚の金片が要るだろうな」
千里は大きく目を見開いた。
「バ……万?」
――ロベルト……あんな適当でふざけた態度の裏で、そんな豪気な真似をしてやがったのか。
「そんなに高い血で、しかも俺の体に入ったばかりなんだろ……。
今から俺の血を椀に二杯分ほど抜いて渡してやるから、この刀の借金をチャラにして、
さらに五百金片を払い戻すってのはどうだ? 鮮度はバツグンだぜ」
鍛冶屋は呆れたように鼻で笑った。
「諦めな、その血はもうお前の肉と一体化してんだよ。今更抜いたところで、出るのは価値のねえ赤い水だけだ!」
「ほら」と、鍛冶屋は手を振って追い払う仕草をした。
「とっとと出て行きな。今はちょうど、あちこちで大量の募集の張り紙が出回る時間帯だ。
お前みたいな素性の知れねえ奴は今すぐ行くこった。
そうじゃねえと、お前を拾ってくれるような物好きの善人すら見つからなくなるぞ」
海辺千里は軽く頷いた。
「恩に着るぜ、角の兄弟。それじゃ『賞金と獣肉の宿』とやらを覗いて、稼ぎ口でも探ってくる」
鍛冶屋は帳簿に千里の借金を書き込みながら、生返事をした。
「ん、ああ、分かった分かった。死なないように祈っといてやるよ」
千里は宙に向けて、何かを掴み取るような仕草を見せた。
「そいつはどーも。もし俺が死んだら、幽霊になってでもその98の金片は取り立てに来るからな!」
そして、千里は背を向けて立ち去った。
鍛冶屋は誰に言うともなく、小声で呟いた。
「死ぬんじゃねぇぞ。んで……借金を返しに来い」
▽▽▽
賞金と獣肉の宿へと戻ると、依頼エリアはちょうど一番賑わう時間帯だった。
人々が慌ただしく出入りし、張り紙を指差してヒソヒソと協議する声が響く。時折、紙を剥ぎ取って「これでボロ儲けだ」と言い残して去っていく者もいた。
海辺千里はその傍らに陣取り、軽く咳払いをすると、一番それっぽいリーダー顔の男に狙いを定めた。
「ちょっといいか?」千里は作り笑いを浮かべる。
「打たれ強い人材、探してねぇか? 俺、強いぜ」
相手は千里をジロリと眺めた。
「長期の依頼でな」男は首を横に振る。
「最低三ヶ月。その間、要塞への帰還はなしだ」
千里はバサッと髪を振り、自信満々に相手の目を覗き込むと、男の鼻先で人差し指を立てて左右に揺らした。
「ノープロブレム! 我慢強いし、メシと寝床のワガママも言わねェぜ」
「そういう意味じゃない」男は冷ややかに告げた。
「この行程のキツさは命に関わる。ド素人に経験を積ませる余裕なんてないってことだ」
二つ目の隊もあっさり拒否。
「護送ルートは荒野を通る」
「新人?」
「無理」
三番目の隊は話す余地すら与えず、千里が近づくのを見るや、無言の連携で依頼書を剥がした。まるで千里に余計なものを見せないためのように。




