奴隷の衣服
意識が戻ったとき、海辺千里の第一の反応はこうだった。
――痛みがない?これはおかしい……
――苦痛こそが生きている証だってのに。ってことは、まさか俺は、もう……
千里は目を開ける。
周囲は石造りの建築だった。薄暗い室内には、隙間から射し込むわずかな朝日だけがあった。
――身体が動く。脚も、動く。
千里は飛び起き、そして呆然とする。
――体の傷が消えている? いや、傷跡すら完全に消え失せてやがる!
――服も新しいものに替わっていた。灰色の粗末な服……
「こんな恰好、奴隷が着てるのしか見たことねえぜ……」
海辺千里はまばたきを一つすると、自らの舌の内側を血が滲むほど強く噛んだ。確かな血の生臭さを味わうまで。
――いてぇ。こりゃ夢なんかじゃない……
「完治にもほどがあるだろ……」千里は呟く。
――不気味すぎるぜ。これでもし治療費を請求されたら、俺、何年奴隷やらされて借金返す羽目になるんだ?
――想像しただけで背筋が凍るぜ。何百年縛られる奴隷契約なんて押し付けられたら一巻の終わりだ。
――だめだ、今すぐ逃げ出さないと!
彼は音を立てずにベッドから抜け出し、身を屈めながら、半開きの扉へと息を潜めてにじり寄った。
指先がドア枠に触れかけた。
――これで自由の身だ!
そう思いかけた、まさにその瞬間。
足の指をすぐそばの硬い木箱の角にぶつけてしまった。
――だろうな! 俺のこのクソ不運で、こんな薄暗い場所で無傷で済むわけがねえ!
彼は観念したようにため息をひとつ吐くと、平然と足を引っ込めた。
突然、薄暗い部屋が強烈な光に満たされた。
何の予兆もない強烈な光に、千里は思わず身をすくめて後ずさり、背中を壁に激突させる。ドンッ、と鈍い音が響いた。
「目、目がァッ! なんだこのふざけた光!」
その直後、男の声が響いた。
「雑役なんて気楽すぎる、君にはもったいない!」
千里が振り向くと、金属音を鳴らしながら一人の兵士が近づいてくるのが見えた。
鉄の鎧を着込んだその兵士は、軽く笑い声を漏らして兜を外した。
「さっきの痛みを何とも思ってないあの様子、まるで生きた死体じゃねえか。
その恐れを知らないタフさを持つ君は、まさに最前線に突っ込むには最高の逸材だ!」
千里の目元が微かに痙攣した。彼はゆっくりと姿勢を正した。
――こいつ……なんで全身鉄鎧なんか着込んでるんだ?そのナリ、随分と凄みがあって半端ねぇな。
「最前線だと?……兵隊さん、どうやら俺について何か致命的な勘違いをなさっているようですね。
こっちは単に、ギャーギャー騒いで面倒な奴らを呼び込みたくなかっただけなんだぜ。
もし視力がお悪いなら、眼鏡でも作ることをお勧めしますな」
兵士は鼻で笑うと、手を横に振った。
「そんなに固くなるなよ、ただの勧誘だ。どうするかは君の自由さ。
歓迎するよ、『大食要塞』へ。名の通り、ここでのメインは食料だ!
とはいえ、外をうろついてる動物は清潔とは程遠くて、全身毒だらけだ。
そいつらをどうにか喉を通る食糧にするために削ぎ落とした毒腺やら苦汁が、逆にここの二番目の名物……『毒物』になってるのさ」
「『大食要塞』だと?」千里は片手で顎を支え、眉をひそめた。
「全く聞き覚えがないな」彼はどうでもよさそうに肩をすくめる。
「だが、厨房と毒物工場を同じ場所に作るとはな。
メシの前に長々とお祈りする奴らの気持ちが、これなら納得がいくぜ」
男はガハハと笑い、そのツッコミを気にする様子もなく、あっさりと話題を切り替えた。
「で、君は何者なんだ?」
男は千里の全身をジロリと見てから続けた。
「俺は輸送ルートの護衛をしててな、街道の端で君を見つけたんだ。かなりの重傷だったよ。
これ以上苦しむ前にいっそ楽にして、転生させてやろうかと思ったくらいだ」
千里はそれを聞き、反射的に自分の首筋に触れて、ほっと息をついた。
「ハッ、転生させる、ね。随分と上品な言い回しじゃねえか。
兵隊さんの機嫌が良くて助かったぜ。その気まぐれがなきゃ、俺は兵隊さんの手で順当に始末されてたな」
兵士は笑顔を崩さずに言った。
「アハハ、始末なんて物騒な。俺は『転生』だと言ったじゃないか」
千里は眉をひそめ、兵士をじっと見つめる。
「まだ転生なんて言ってんのか? そんなもん、死人に被せるただの建前だろ。
生きてる奴が死の恐怖から逃げるためにでっち上げた、都合のいい綺麗な嘘にすぎねえ。
冗談のタネにするなら笑えるけどな。だが俺は知ってる。死んだらそこでおしまいだ。
そんなこと……他人の口から適当に言われただけで成立するのかよ?」
兵士は頷いた。
「ああ。俺たちの最大の集落である『紡命巣都』じゃあ、手続きは至ってシンプルなんだよ」
――信仰に目が眩んでいる。
千里はそう心で評価したが、口には出さなかった。
「わかった。じゃあ、お前らの言う『応急処置』はちょっと詩的ってことで」
兵士は頷いた。
「だが、君は生き延びた。つまり、その『サービス』は必要なかったってことだ」
千里は感謝すべきか迷い、乾いた笑いを漏らして話題をスルーした。
「俺は、うみ……かいろ、姓は……黄泉。そう!黄泉海路だ。
信じてくれ、指名手配犯の名前じゃないぜ。ただ黄泉の国を観光してきたばかりの、ツイてない奴さ」
千里は真面目な顔でそう言った。
――あの神狂いどもの手配書が、ここまで届いてないという保証はない。本名を教えるなんて自殺行為だ。適当にでっち上げるか。
兵士は納得したように頷く。
「黄泉か?そりゃまたタイムリーな名前だな。
拾ってやった時の君、マジであの世から這い出てきたみたいなナリだったよ」
千里は作り笑いを顔に張り付け、とりあえずといった様子で頷いた。
「あ、ところで。道中で透明なバケモンに襲撃されたんだけど。
あれは……理不尽極まりない液体を吐く、礼儀知らずなやつだ。
あれ、いったい何なの?」
「ああ、あれか」男の声は急に興奮を帯びた。
「あいつの口から生還するとはな、黄泉、お前さん大したもんだな。あれはこの森の覇者で、俺たちは『スライム』って呼んでる」
「スライムはかなり重宝されててな。生まれつき凄まじい洗浄能力を持ってる。
どんなどぶ沼に放り投げても、すぐに底が透けて見えるくらい浄化しちまうんだ」
「ただまぁ、汚れってのは魔法みたいに消えるわけじゃねえ。
吸い取った汚物を体内で圧縮して混ぜ合わせ、一発食らえば即座に痺れて気絶する『毒砲弾』へと発酵させるのさ」
「獲物は一発でも食らえば、悲鳴を上げる間もなく気絶して、そのまま丸飲みにされちまう。 厄介極まりない代物でな。
だから、あいつの毒砲を浴びて逃げ延びたなんて、信じられねぇよ。お前、一体どうやったんだ?」
千里は背中をさすりながら、苦笑いを漏らした。
「どう逃げたかって? そりゃ自分の足で走ったに決まってるだろ。
煮えたぎる油みたいな水が背中にぶっかけられたんだぜ。お前でも嫌でも足が速くなるさ」
兵士の片眉がピクリと動き、その口元が歪んだ。
「痛い、だと? スライムの毒を浴びて、ただ痛いだけで済んだってのか? 普通は痛みすら感じる前にぶっ倒れて終わりだぞ」
千里は眉をひそめた。
「気絶? あんなに痛いのに寝てられるかよ? ……あ、いや、最後は確かに寝たけどさ」
「でもマジな話、水たまりみたいなナリして高圧の毒液ぶっ放してくるなんて、どんだけふざけた生き物だよ。どうかしてるぜ」
兵士は突然声を上げて笑い出した。
「ハハハッ! どうやら君は、ここが地球じゃないってことにまだ気づいてないようだな!
それこそ最高にどうかしてるぜ。ようこそ、異世界へ」
千里は訳が分からないといった様子で、自分の額に触れた。
「地球じゃない? 地球じゃなきゃ俺はどこにいるんだよ? 異世界って……どういう意味だ?」
兵士は近くの木椅子を無造作に引き寄せ、背もたれに腕を乗せてまたがり座りをした。
「君も俺も、ここにいる人は地球から来たんだ。君には何か異常があったに違いない」
「異常?」
「そう!まさにその異常が、地球の空間に歪みをもたらした。
空間が一時的に崩れ、俺たちは虚空へと放り出されたんだ。
回復したときに位置がずれて、この地球に似た別世界に飛ばされたのさ」
男は熱中している。
「君が遭遇したアレは、この環境における生態系の異常進化の産物だ。
はっきりしているのは、ここの生物の進化ルートが地球のそれとは比べ物にならないほど凶暴で、
常識を超越しているということだ。その形態も前代未聞のものばかりでね」
「聞いてくれ」男は声を落とし、誇らしげに続けた。
「俺は以前、巨竜に出会ったことがある。本当に、火を吹き、人の言葉を話す。あの知能……くっ」
男はすぐに嫌そうな顔になる。
「でも話は通じない。人を食うだけだ。やっぱり獣は獣だな」
千里は呆れた。
「つまり……ここは地球じゃない?じゃあ、もう追われなくていいんだな?」
男は一瞬固まった後、咳払いした。
「君は地球で悪事を犯した?」男は千里を上から下まで見渡した。
「うん……そういうことだ。安心しろ、ここでは地球での過ちを問わない。ただし……」
男は立ち上がり、拳を振りかざし、千里の目の前で止めた。暴力的な誠意を隠さず示した。
「ここでは二度と悪さをするな」
千里は鼻先にある拳を二秒間見つめた。
「了解。面倒は起こさない、無茶はしない。きっちり飯を食って、健康的に眠るさ」
「さて、脅かすのはこれくらいにしておくか」男は軽く手を打ち鳴らす。
「紡命巣都が定めた強制義務によれば、
新しく落ちてきた哀れな連中は希少動物よりもお宝扱いってわけだ。
その腐りかけた肉体を完治させた上に、元手として五百くれてやるんだ。
紡命巣都が求める条件はただ一つ、『ご恩』を忘れないことだけさ。感謝しろ」
男は懐から封筒を取り出し、中身を見せる。材質不明の金片に数字が書かれている。どれだけ重ねても薄い。
「説明しておく、新人が騙されないようにな。
十数枚で一食、五十枚で宿泊、百枚以上で良い武器が買える。
色々な方法で稼ぐことも可能。でも、自分の特技を活かすのが一番だ」
男の視線が千里に落ちた。
「で……ここに来る前、君は何をしていた?」
千里は口を歪めた。
「地球?ちょうど……拷問されてた」
男は二秒ほど言葉を失った後、同情するような目を向け、低く唸った。
「拷問か……外的要因で強いられた異常ってわけか……よく発狂しなかったな、感心する。
だが、拷問ってことは? 痛みに耐性があるってことだな?
それならいい適性がある。薬の被検体か、凶獣の歯医者、もしくは……」
男は胸当てを軽く叩いた。
「俺のように、兵士。紡命巣都に従い、要塞の治安を守り、突発事態に対処し、規則違反者をぶちのめす」
千里は露骨に嫌な顔をして瞬きした。
「すまん、もう一回言ってくれない? 今勧めてくれたのって、自滅か、エサか、殉職のどれだった?」
その時、出口のドア越しに笑い声が響いた。
「彼に兵士が一番マシな仕事だって錯覚させるために、わざとデタラメな職業を二つ混ぜたね?」
ドアが押し開かれ、女の声の主が姿を見せる。頭の両サイド、ちょうど耳の横あたりから、ゆっくりと蠢く三本の触角を垂らした女。まだ笑ってる。
部屋に足を踏み入れた瞬間、触角の女の笑い声がピタリと止んだ。彼女は必死に真顔を作ろうとしている。
だが、その表情はどう見ても不自然だった。無理に結んだ唇、ピクつく目尻、そしてこめかみの触角まで強張って直立している。
「ええと……外周の森で謎の地震が起きて、私たち、調査に徴用されちゃって」
千里は大きく目を見開き、彼女の頭を指差した。
「こ……これ、レディ! 脳天に肉虫が食らいついてるぞ! 俺が椅子でぶっ潰してあげましょうか!?」
千里が椅子を引っ掴むと、それを見た女は、慌てて頭を抱え込む。
「や、やめてってば! これ私の感覚器官だから! 『紡命巣都』の生命技術、あんたもすぐ見慣れるから!だからその椅子を下ろせ!」
「何の技術だって?」 千里は片眉をひょいと上げ、椅子を床に下ろした。
「ああ、なるほどね。ハイテクってやつか。てことは、この光る球体もそうなんだな。
……いや違うぞ、さっきのはただ、立ちっぱなしじゃ疲れるだろうから、座らせてあげようと思っただけだぜ」
兵士は不自然に二度咳払いをし、千里へと草鞋を投げ渡した。それから入り口の扉を指差して言う。
「よし……黄泉海路、だったか? お前のベッドの利用期限はたった今終了した。
ほら、この扉から出ていけ。せいぜい新世界で長生きすることだな」
「了解」千里は空気を読んで立ち去ろうとした。その去り際、兵士が声をかけた。
「俺はロベルト。しばらくはここにいるはずだ。……気が向いたら、兵士の件、考えといてもいいし、
あるいは俺に飯くらい奢ってくれてもいいぞ、ははっ」




