背後に迫る水音
海辺千里は警戒しながら水辺に近づき、しゃがみ込む。
手で水をすくう。
――冷たく、澄んだ甘み。雑味は一切ない。
「あ……生き返った。
衛生観念を捨てて、底の『隠し味』さえ無視すれば、まさに絶品だ。
うちの親父の秘蔵コレクションより、ずっといい味出してるぜ」
彼は顔面を水の中に沈めて数秒息を堪え、勢いよく顔を跳ね上げた。派手に水しぶきが舞う。
「このクソみたいな厄日も、ようやくお開きってわけだ!
流石に今日はもう、これ以上酷い目には遭わねえだろ。
俺を徹底的に不幸な目に遭わせる奴なんて、 まだこの世に生まれてきてねえからな!あっはっはっはっは……は?」
水面が、揺れた。
見えない手に掻き回されるように、水が上下に波打つ。やがて、小さな渦が生まれる。
「……自動撹拌?」
直後。
水面の渦が轟音とともに弾け、濁った不気味な水が真正面から爆発的に浴びせられた。
その液体が肌に触れた途端、まるで熱した油を注がれたような鋭い刺痛が襲った。
「っあああ!?」
海辺千里はその場で転げ回った。
「この水……なんで熱湯なんだよ!」
――いや待て、この液体は明らかに冷たいぞ! 焦げた痕なんてないのにめちゃくちゃ痛え!
――これは毒液だ! 水底に何かが潜んで、俺を闇討ちしようとしてやがる!
もがいた直後、即座に体勢を立て直すと、渦の中から透明な軟体生物がゆっくりと浮かび上がってきた。
ほとんど透明で、クラゲのようにも見えるそいつは、表面を不気味にうごめかせている。透けた体の中では、淀んだ液体がどろどろと巡っていた。
「……一体何て魚だよ……しかも見えなくなる系のやつ?!」
海辺千里は距離を取りつつ後退する。手は反射的に腰へ向かうが、武装はない。
脳内で即断。
――準備不足。
――体調最悪。
――敵性不明。
――はい、逃げろ。
彼はすぐに立ち上がり、走り出した。
振り返ると、あの生物が追ってきているのに気づいた瞬間、千里は悟った。
――終わりだ……速く走れない。意志の問題ではなく、身体が許さない。
――筋肉は悲鳴を上げ、足の裏は擦り切れ。
――走れるには走れる。だが、格好も悪く、長くは続かない!
「は? あ? ふざけんな!」千里は荒い息を吐きながら叫ぶ。
――あのものは地面を這い、音もなければ姿もほぼ見えない。
――だが、背中にへばりつくような追跡の気配だけは、間違いなくそこにあった。
「もしお前がこの場所の原住民なら、先に言っておく!
俺は火に炙られたことはあるが、今は泥まみれで汚い。
どう見ても、清潔そうなお前のご馳走には向かないと思うぞ!」
突然、背後から液体が掻き回されるような音が鳴った。
次の瞬間、その生物の吐く液体が、水大砲のように背中を撃ち抜く。
灼けつくような痛みが炸裂した。
海辺千里は地面に叩きつけられた。
転がり、泥にまみれ、それでも起き上がり、みっともなくも走り続ける。
方向は選ばない、ただ「奴から離れる」ことだけを考える。
――あいつ、もっと速く行けるはずなのに、わざと安全な距離を保って、ゲロを吐きながら俺の余力を削りにきてる。
――あからさまに消耗死の意図だ!
――あの水の塊、一体どこにこんな悪知恵が働く脳みそがあるってんだ!
背後から、液体がかき回される音が響く。
今度は千里が素早く身を躱した。
「く……追いかけてくるなよ。これじゃ健康になっちまうだろ!」
震える声を張り上げ、千里は飛散する吐瀉物を避けながら、その口からは絶え間なく悲鳴が漏れ出ていた。
――そいつはずっと、地面に張りついたまま滑っていた。
――くそ! よりによって、あんなカタツムリみたいな動きのやつに、俺は息もつけないほど追い詰められていた。
「カタツムリみたいに体を引きずってるくせに、なんでちっとも遅くねえんだよぉぉぉ!!?」
前方から、ふいに冷たい風が吹いた。
――妙だ、下から吹き上げてくる風?……前方の草むらの先に……地面がない!
そこでようやく気づく。
千里は慌てて足を止める。勢いに体が前へつんのめり、危うく落ちかけたが、なんとか踏みとどまった。
足元の小石がざらざらと転がり、闇の中へ落ちていく。しばらくしてから、ばらばらと散ったような反響が返ってきた。
草むらの陰に隠れていたのは、地面を裂くような深い亀裂だった。
裂け目が、真正面に口を開けていた。左右はどちらも茂みの奥へ消えていて、まるでかつて何か巨大なものが地底から這い出し、無理やり大地を押し裂いた跡のようだった。
千里は穴の縁にしがみつき、冷や汗をだらだら流した。
「あの親切な人……」
唾を飲み込む。
「どうせなら最初からここに叩き落としてくれてたら、俺、無駄に走らなくて済んだんだけどな」
――行き止まりだ。すぐに方向を変えねえと……いや……それじゃ、いずれ追いつかれるだけだ……
けど、背後から聞こえるぬちゃりとした滑走音は、どんどん近づいてくる。
「止まる気は、ないらしい」
千里は背後を一瞥し、再び眼下の深い亀裂を見つめた。
「……いいだろう」
半歩下がる。喉の奥で、乾いた笑いが引っかかった。
「俺、賭け事って嫌いなんだよな……」
さらに一歩。
「賭ける前から、自分が勝つ妄想しかしてないようなやつは、特に最悪だ……」
もう一歩。
「……あいにく、今の俺には、馬鹿な手しか残ってない!」
千里は裂坑の対岸めがけて駆け出した。
踏み込んだ足元で砕石が爆ぜる。鋭い痛みが足裏から背筋を抜け、頭皮まで走った。
海辺千里は、勢いのまま跳び出した。
地面から足が離れた瞬間、もう後悔した。
――届かない。
裂け目の下で、黒い穴がゆっくりと口を開ける。小石が一つずつ脇を落ち、背後から迫っていたぬめる音も、ずっと遠くへ伸びていった。
――……俺、どんだけ自分に才能があると思ってたんだよ。
だが、次の瞬間。背後で液体が圧縮されたような破裂音が轟いた。
放たれた水弾が、千里の背中にまともに直撃する。
本来なら命取りになるはずのその一撃が、体を強引に前方へと押し出した。
落ちるはずだった千里は対岸の縁にぶつかった。
本能のまま両手を前へ突き出し、十指を大きく開いて、亀裂の縁に必死に食らいついた。
藁にも縋る思いで全身の力を込め、腕の筋肉が痙攣するほど力任せに一気に這い上がる。
だが起き上がった瞬間に体勢を崩し、そのままそばにあった枯れ木にぶつかって倒れ込んだ。
海辺千里はゆっくりと体を反転させ、地面に這いつくばるようにして対岸へ視線を向けた。
透明な水みたいな生き物は、裂坑の縁でぴたりと止まっていた。
草地の上でぶよぶよと身体を波打たせ、内側の濁った液体がぐるぐるとかき回されている。けれど、それ以上こっちへ来ようとはしない。
千里はそれをしばらく睨んでから、急ににやっと笑った。
「どうした。羽でも家に忘れてきたか?」
震える手を上げ、対岸の水塊を指さす。声も震えていたが、そこには無理やり得意げな調子があった。
「カタツムリ野郎! やっぱりな。てめえ……地面から離れられないんだ」
あの透明な水みたいな生き物は、裂坑の縁で止まったまま、身体を膨らませたりしぼませたりしている。
まるでジャンプの難易度でも測っているみたいだった。
海辺千里はたちまち顔色を変えた。
「おい」
慌てて手を上げ、制止の仕草をする。声には隠しきれない焦りが滲んでいた。
「やめろ。変な気を起こすな……」
その生き物は最終的に飛ぶのを諦めた。ただ、裂坑の縁をなぞるように、ゆっくりと動いている。
――まずいな。あいつ、縁に沿って這いずり回ってやがる。明らかにこっちへ回り込むルートを探してるな……。
「……なあ」
千里は枯れ木に手をかけ、上体を起こした。
「なんでそこまで執念深いんだ」
枯れ木を支えに身体を持ち上げる。腕は小刻みに震えていた。
「……これはまずい」
――両脚はもう言うことを聞かなかった。走る、という動作そのものを許してくれない。
――「走れば痛い」程度の、気合いでごまかせる状態ではなかった。
――できるのは、身体を引きずって進むことだけ。
――あいつから、できるだけ遠くへ離れ……
だから千里は、あの生き物とは反対の方向へ移動した。
――一歩。
――二十歩。
――三百歩。
――数えていれば、頭が変にならずに済んだ。
――自分が確かに離れているのだと、確認できる。
――けれど、いつの間にか数字が……ぼやけてきた。
「……俺、今何歩目だっけ?」
耳鳴りが、始まった。
最初は、低い嗡音だった。
それがだんだん、潮の音みたいに大きくなる。
そのうち、その潮騒の中に別の音が混ざった。
背後から、液体がかき回される音。
千里は反射的に振り返った。しばらく、背後の暗がりを睨み続ける。
喉が一度、こくりと動いた。
「……何もない、ただ暗いだけだ。暗闇なんて怖くない」
震えの止まらない両手で、彼は自身の顔を覆う。
「何も起きていない。何も起きやしない」
しばらく歩くと、今度は人の声が聞こえた。
「あそこ……」
「まだ息があるのか?」
「急げ」
千里はばっと顔を上げた。
木に手をつき、よろめきながら声のした方へ歩いていく。
灌木をかき分ける。
その先には、誰もいなかった。
風に揺れる草の葉があるだけだった。
千里はその場に立ち尽くし、口元をひくりと引きつらせた。
「……気のせいだ」
自分の頭を軽く叩く。
「……ただの悪夢さ。やり過ごせばいい、歩き続けろ」
振り返り、再び歩き出す。
「このままだと、そのうち木と会話し始めるぜ、俺」
少し歩いては立ち止まり、身体の半分を木に押しつけて息を整える。
「倒れんな、一度でも地面に尻をついたら、きっともう起き上がれねえ。
耐えろ……この眩暈が過ぎて、視界が戻ったら……まだ進める」
ざらざらした樹皮に額を当て、眩暈が過ぎるのを待つ。それからまた、ふらつきながら進んだ。
「……駄目だ」千里はかすれた声で呟いた。
「何か、探さねえといけなかった気がする。すげえ大事な何かを……何だったっけな……」
膝から力が抜け、腰も沈み、ついには前方に倒れ込む。千里は体裁のいい姿勢を選ぶ余裕もなかった。
「やめてくれ……」
それが、千里の最後のまともな思考だった。
支えを失った身体が、重く地面に叩きつけられる。
視界が完全に暗く沈む寸前、千里は気づかなかった。
頬の下の感触が、もう泥でも砂利でもなくなっていることに。
幸運にも、千里は人の通る道の上に倒れていた。




