↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
不気味な転生  作者: ハイイ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/18

背後に迫る水音

海辺千里(うみべ せんり)は警戒しながら水辺に近づき、しゃがみ込む。


手で水をすくう。


――冷たく、澄んだ甘み。雑味は一切ない。


「あ……生き返った。


衛生観念を捨てて、底の『隠し味』さえ無視すれば、まさに絶品だ。


うちの親父の秘蔵コレクションより、ずっといい味出してるぜ」


彼は顔面を水の中に沈めて数秒息を堪え、勢いよく顔を跳ね上げた。派手に水しぶきが舞う。


「このクソみたいな厄日も、ようやくお開きってわけだ!


流石に今日はもう、これ以上酷い目には遭わねえだろ。


俺を徹底的に不幸な目に遭わせる奴なんて、 まだこの世に生まれてきてねえからな!あっはっはっはっは……は?」


水面が、揺れた。


見えない手に掻き回されるように、水が上下に波打つ。やがて、小さな渦が生まれる。


「……自動撹拌?」


直後。


水面の渦が轟音とともに弾け、濁った不気味な水が真正面から爆発的に浴びせられた。


その液体が肌に触れた途端、まるで熱した油を注がれたような鋭い刺痛が襲った。


「っあああ!?」


海辺千里はその場で転げ回った。


「この水……なんで熱湯なんだよ!」


――いや待て、この液体は明らかに冷たいぞ! 焦げた痕なんてないのにめちゃくちゃ痛え!


――これは毒液だ! 水底に何かが潜んで、俺を闇討ちしようとしてやがる!


もがいた直後、即座に体勢を立て直すと、渦の中から透明な軟体生物がゆっくりと浮かび上がってきた。


ほとんど透明で、クラゲのようにも見えるそいつは、表面を不気味にうごめかせている。透けた体の中では、淀んだ液体がどろどろと巡っていた。


「……一体何て魚だよ……しかも見えなくなる系のやつ?!」


海辺千里は距離を取りつつ後退する。手は反射的に腰へ向かうが、武装はない。


脳内で即断。


――準備不足。

――体調最悪。

――敵性不明。


――はい、逃げろ。


彼はすぐに立ち上がり、走り出した。


振り返ると、あの生物が追ってきているのに気づいた瞬間、千里は悟った。


――終わりだ……速く走れない。意志の問題ではなく、身体が許さない。


――筋肉は悲鳴を上げ、足の裏は擦り切れ。


――走れるには走れる。だが、格好も悪く、長くは続かない!


「は? あ? ふざけんな!」千里は荒い息を吐きながら叫ぶ。


――あのものは地面を這い、音もなければ姿もほぼ見えない。


――だが、背中にへばりつくような追跡の気配だけは、間違いなくそこにあった。


「もしお前がこの場所の原住民なら、先に言っておく!


俺は火に炙られたことはあるが、今は泥まみれで汚い。


どう見ても、清潔そうなお前のご馳走には向かないと思うぞ!」


突然、背後から液体が掻き回されるような音が鳴った。


次の瞬間、その生物の吐く液体が、水大砲のように背中を撃ち抜く。


灼けつくような痛みが炸裂した。


海辺千里は地面に叩きつけられた。


転がり、泥にまみれ、それでも起き上がり、みっともなくも走り続ける。


方向は選ばない、ただ「奴から離れる」ことだけを考える。


――あいつ、もっと速く行けるはずなのに、わざと安全な距離を保って、ゲロを吐きながら俺の余力を削りにきてる。


――あからさまに消耗死の意図だ!


――あの水の塊、一体どこにこんな悪知恵が働く脳みそがあるってんだ!


背後から、液体がかき回される音が響く。


今度は千里が素早く身を躱した。


「く……追いかけてくるなよ。これじゃ健康になっちまうだろ!」


震える声を張り上げ、千里は飛散する吐瀉物を避けながら、その口からは絶え間なく悲鳴が漏れ出ていた。


――そいつはずっと、地面に張りついたまま滑っていた。


――くそ! よりによって、あんなカタツムリみたいな動きのやつに、俺は息もつけないほど追い詰められていた。


「カタツムリみたいに体を引きずってるくせに、なんでちっとも遅くねえんだよぉぉぉ!!?」


前方から、ふいに冷たい風が吹いた。


――妙だ、下から吹き上げてくる風?……前方の草むらの先に……地面がない!


そこでようやく気づく。


千里は慌てて足を止める。勢いに体が前へつんのめり、危うく落ちかけたが、なんとか踏みとどまった。


足元の小石がざらざらと転がり、闇の中へ落ちていく。しばらくしてから、ばらばらと散ったような反響が返ってきた。


草むらの陰に隠れていたのは、地面を裂くような深い亀裂だった。


裂け目が、真正面に口を開けていた。左右はどちらも茂みの奥へ消えていて、まるでかつて何か巨大なものが地底から這い出し、無理やり大地を押し裂いた跡のようだった。


千里は穴の縁にしがみつき、冷や汗をだらだら流した。


「あの親切な人……」


唾を飲み込む。


「どうせなら最初からここに叩き落としてくれてたら、俺、無駄に走らなくて済んだんだけどな」


――行き止まりだ。すぐに方向を変えねえと……いや……それじゃ、いずれ追いつかれるだけだ……


けど、背後から聞こえるぬちゃりとした滑走音は、どんどん近づいてくる。


「止まる気は、ないらしい」


千里は背後を一瞥し、再び眼下の深い亀裂を見つめた。


「……いいだろう」


半歩下がる。喉の奥で、乾いた笑いが引っかかった。


「俺、賭け事って嫌いなんだよな……」


さらに一歩。


「賭ける前から、自分が勝つ妄想しかしてないようなやつは、特に最悪だ……」


もう一歩。


「……あいにく、今の俺には、馬鹿な手しか残ってない!」


千里は裂坑の対岸めがけて駆け出した。


踏み込んだ足元で砕石が爆ぜる。鋭い痛みが足裏から背筋を抜け、頭皮まで走った。


海辺千里は、勢いのまま跳び出した。


地面から足が離れた瞬間、もう後悔した。


――届かない。


裂け目の下で、黒い穴がゆっくりと口を開ける。小石が一つずつ脇を落ち、背後から迫っていたぬめる音も、ずっと遠くへ伸びていった。


――……俺、どんだけ自分に才能があると思ってたんだよ。


だが、次の瞬間。背後で液体が圧縮されたような破裂音が轟いた。


放たれた水弾が、千里の背中にまともに直撃する。


本来なら命取りになるはずのその一撃が、体を強引に前方へと押し出した。


落ちるはずだった千里は対岸の縁にぶつかった。


本能のまま両手を前へ突き出し、十指を大きく開いて、亀裂の縁に必死に食らいついた。


藁にも縋る思いで全身の力を込め、腕の筋肉が痙攣するほど力任せに一気に這い上がる。


だが起き上がった瞬間に体勢を崩し、そのままそばにあった枯れ木にぶつかって倒れ込んだ。


海辺千里はゆっくりと体を反転させ、地面に這いつくばるようにして対岸へ視線を向けた。


透明な水みたいな生き物は、裂坑の縁でぴたりと止まっていた。


草地の上でぶよぶよと身体を波打たせ、内側の濁った液体がぐるぐるとかき回されている。けれど、それ以上こっちへ来ようとはしない。


千里はそれをしばらく睨んでから、急ににやっと笑った。


「どうした。羽でも家に忘れてきたか?」


震える手を上げ、対岸の水塊を指さす。声も震えていたが、そこには無理やり得意げな調子があった。


「カタツムリ野郎! やっぱりな。てめえ……地面から離れられないんだ」


あの透明な水みたいな生き物は、裂坑の縁で止まったまま、身体を膨らませたりしぼませたりしている。


まるでジャンプの難易度でも測っているみたいだった。


海辺千里はたちまち顔色を変えた。


「おい」


慌てて手を上げ、制止の仕草をする。声には隠しきれない焦りが滲んでいた。


「やめろ。変な気を起こすな……」


その生き物は最終的に飛ぶのを諦めた。ただ、裂坑の縁をなぞるように、ゆっくりと動いている。


――まずいな。あいつ、縁に沿って這いずり回ってやがる。明らかにこっちへ回り込むルートを探してるな……。


「……なあ」


千里は枯れ木に手をかけ、上体を起こした。


「なんでそこまで執念深いんだ」


枯れ木を支えに身体を持ち上げる。腕は小刻みに震えていた。


「……これはまずい」


――両脚はもう言うことを聞かなかった。走る、という動作そのものを許してくれない。


――「走れば痛い」程度の、気合いでごまかせる状態ではなかった。


――できるのは、身体を引きずって進むことだけ。


――あいつから、できるだけ遠くへ離れ……


だから千里は、あの生き物とは反対の方向へ移動した。


――一歩。


――二十歩。


――三百歩。


――数えていれば、頭が変にならずに済んだ。


――自分が確かに離れているのだと、確認できる。


――けれど、いつの間にか数字が……ぼやけてきた。


「……俺、今何歩目だっけ?」


耳鳴りが、始まった。


最初は、低い嗡音だった。


それがだんだん、潮の音みたいに大きくなる。


そのうち、その潮騒の中に別の音が混ざった。


背後から、液体がかき回される音。


千里は反射的に振り返った。しばらく、背後の暗がりを睨み続ける。


喉が一度、こくりと動いた。


「……何もない、ただ暗いだけだ。暗闇なんて怖くない」


震えの止まらない両手で、彼は自身の顔を覆う。


「何も起きていない。何も起きやしない」


しばらく歩くと、今度は人の声が聞こえた。


「あそこ……」


「まだ息があるのか?」


「急げ」


千里はばっと顔を上げた。


木に手をつき、よろめきながら声のした方へ歩いていく。


灌木をかき分ける。


その先には、誰もいなかった。


風に揺れる草の葉があるだけだった。


千里はその場に立ち尽くし、口元をひくりと引きつらせた。


「……気のせいだ」


自分の頭を軽く叩く。


「……ただの悪夢さ。やり過ごせばいい、歩き続けろ」


振り返り、再び歩き出す。


「このままだと、そのうち木と会話し始めるぜ、俺」


少し歩いては立ち止まり、身体の半分を木に押しつけて息を整える。


「倒れんな、一度でも地面に尻をついたら、きっともう起き上がれねえ。


耐えろ……この眩暈が過ぎて、視界が戻ったら……まだ進める」


ざらざらした樹皮に額を当て、眩暈が過ぎるのを待つ。それからまた、ふらつきながら進んだ。


「……駄目だ」千里はかすれた声で呟いた。


「何か、探さねえといけなかった気がする。すげえ大事な何かを……何だったっけな……」


膝から力が抜け、腰も沈み、ついには前方に倒れ込む。千里は体裁のいい姿勢を選ぶ余裕もなかった。


「やめてくれ……」


それが、千里の最後のまともな思考だった。


支えを失った身体が、重く地面に叩きつけられる。


視界が完全に暗く沈む寸前、千里は気づかなかった。


頬の下の感触が、もう泥でも砂利でもなくなっていることに。


幸運にも、千里は人の通る道の上に倒れていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。