消失の瞬間
「私は人に罪を認めさせることにおいて、最も優れた手腕を持つ拷問官である。
私の前に送られてくる者たちは、もはや罪を証明される必要などない。
必要なのはただひとつ。認めることを、学ぶだけだ。
今日、私は命令された。海から来た男をひとり、痛い目に遭わせろ、と」
「椅子に縛られたその男の名は、海辺千里。
1701年5月12日の午前。
港で、彼は大勢の前で『聖人が現れた』などという茶番を暴いてみせた」
「その顕現は本来、民衆を跪かせ、献金させ、涙を流させるためのものだった。
神はまだこの街を見守ってくださっている。そう思わせるための、ありがたい奇跡。
……の、はずだ」
「この男はやらかした。
舞台に飛び乗るなり供物台をひっくり返し、木の楔を抜き、聖像の裏に仕込まれていた細い糸を引っぱり出す。
さらに、木箱の中に潜んでいた童僕まで引きずり出し、見物人たちに向かって言った」
「なあ、お前らの神様ってのは、木工職人がいないと奇跡も起こせないのか?」
港中が笑いに包まれた。
「当然、この出来事に主教は激怒した。
だから、私が呼ばれた。罪名はと言えば、もちろんとうに決まっている……『冒涜』。
主教の望みは簡単だった。あの男に罪を認めさせる。そして海の連中に、はっきり見せつける。
陸は、彼らが好き放題に暴れていい場所ではないのだと」
――海辺千里。
――聞いただけなら弱そうな名だ。だが、いざ手をかけてみると、これが妙にしぶとくて面倒くさい。
海辺千里は椅子に縛りつけられていた。
皮膚はもう、焼けた鉄と塩水で交互に痛めつけられている。
――手順通りなら、今ごろは泣き叫ぶか、悪態をつくか、気を失っているはずだった。
――だが、彼は違った。呼吸も乱れていない。とても、拷問を受けている人間のものには見えなかった。
「疵根様……」助手が焼きごてを握る手を震わせた。
「通常の焼きごてと塩水はあいつには効かないようです。次の手順に進みますか?」
疵根はため息を吐いた。
「手際が荒い」
疵根は助手の手から鉄の道具を奪い取った。
「こういう希少な『珍種』には、もっと精密な彫刻が必要なんだ」
――痛みは正確に与えられる。量、部位、間隔。
――英雄でも聖者でも例外はない。存在しない罪すら認めさせる重圧だ。
だが、海辺千里は顎をわずかに上げただけだった。まるで風を受けるように。
「……おかしい」疵根は改めて海辺千里の検査を行った。
すると、千里が抵抗し始めた。
「ちょっ、待て待て、変なとこ捏ね回すな!」
疵根は愕然とした。
「失禁反射なし。涙なし。精神状態も安定」
鉄鉗を取り、彼の指をもう一度きつく締めた。
――普通なら、ここで崩れる。
しかし、海辺千里はただ疵根を見つめ返し、嘲笑を漏らした。
「ハハハッ、お前ら、よくもまあ容赦なくやってくれたな! 何度も言ったはずだ、
『鯨骨旗』海賊団を知らねえのか!? 俺は首領の一人息子だぜ!
俺を泣かせるってことは、海全体に宣戦布告するってことだからな!」
疵根は彼を厳しく見据えた。
「だからどうした。ここは教会の領分だ。いかに広大な海であろうと、神の足元では退潮するほかない」
助手が短く笑った。
――しかし、こいつは何なんだ……なぜこれほどまでに元気なのか? 絶対におかしい……
――拷問人であるこの私が、受刑者に対して恐怖を抱いているだなんて……
困惑に沈み込んだその瞬間。疵根の視界の端で、灯火が不意に一方向へと歪んだ。
「風が吹いた?」
――ありえない!ここは教会の最深部にある地下拷問室だ!
続いて、壁も、鎖も、海辺千里の顔も、まるで水面に映っているみたいに歪んで見えた。
疵根は反射的に机の縁を掴み、海辺千里を睨みつける。
「何をした! お前の仕掛けか?!」
「何の話だ? もしそうなら……」千里は瞬きをした。
彼はごくりと喉を鳴らした。
「俺がいちばん止め方を知りたい!」
海辺千里の輪郭が歪み、引き伸ばされていく。
そして次の瞬間、完全に消えた。
椅子ごと、海辺千里は跡形もなく消失した。
炎が揺れ、鎖の破片が床に落ちる。やがて、すべてが元に戻っていった。
疵根はその場に硬直した。
「誰もこの状況を説明できない。
私の知る刑罰録、異端記録、神跡譚。そのどれを探しても、この『欠落』を説明できるものはなかった」
「逃走でも、幻術でも、死でもない。現実の一片がえぐり取られ、私はその縁に立っていた」
▽▽▽視点:海辺千里
――どうやら、俺は落ちているらしい。
海辺千里が意識を取り戻した最初の認識は、それだった。
――上下のない落下!方向感覚の喪失。景色がグルグル回って、焦点すら合わねえぞ!
――痛みは消えていない。だからこそ、これは現実だと分かる。
「息ができない……海?水……違う、水はない。
じゃあなんで……あの拷問官、また手口を変えたのか……」
千里は椅子の上で暴れたが、椅子に完全固定され、動作は封じられていた。
だが、方向感覚の喪失は突然終わる。重力が戻り、視界が定まる。
千里は地面に投げ落とされた。
着地の衝撃で、真っ先に犠牲になったのは椅子だった。
椅子は衝撃に耐えきれず、一瞬でいくつもの破片に砕け散る。
そのおかげで拘束から逃れた千里は、地面に倒れ、荒い呼吸を繰り返す。
やがて呼吸が整うと、身体を起こす。
皮膚が裂け、筋肉が抗議し、骨が鈍く響く。
満身創痍にもかかわらず、彼は気軽な様子で、泥から立ち上がった。
そして、付着した泥を無造作に払い落とした。
「ここは……外……?俺、助かったのか……おい? 助けたやつ……恩人?」
――周囲は灌木と木々で埋め尽くされていた。どうやらここは密林のようだ。
人影が見当たらないので、千里は周囲に向かって声を上げた。
「さっきの手口、なかなかワイルドだったな。腰を折る寸前だったけど、効率は悪くない。覚えておく」
そう言いながら文句をこぼし、壊れた椅子を一蹴りした。
「後でちゃんと礼はするからな」
しかし、しばらく返事はない。仕方なく、千里は口調を少し和らげて続けた。
「もちろん、効果は抜群だ。目が覚める、気が引き締まる。ただし、隠れずにやってくれよ。借りを作るのは好きじゃない」
千里はしばらく待った。けれど、返事はない。
風の音と、遠くの獣の唸りだけが残る。
「そういうの、やめようぜ」
千里は空に向かって言った。
「人命救助を途中で切り上げるのは、あんまり感心しないな。
せめて、ここがどこなのかくらい教えてくれ。
そうだな……銀貨十枚払う。さらに、俺からの誠意ある感謝も添えよう」
――さすがに足りないか。
「よし、二十枚! これ以上は、俺自身を差し出すしかなくなるな。
念のため言っておくが、俺は世話が面倒だぜ。あと、けっこう口答えする」
しばらく待って、やがて千里は両手を高く挙げ、負けを認めた姿勢を示した。
「お前の勝ちだ……」
右手を上げ、痛みに顔をしかめながら、なんとか指を三本立てた。
「く……小舟を一隻つける」
歯を食いしばって、そう言った。
「ただし少し水漏れする。ひどくはない。雨の日だけ、ちょっと目立つ」
……返事はない。
海辺千里はついに諦めたようにため息をつき、腰に手を当てた。
「どうやら、名乗らないタイプの善人らしい。善行は匿名、そのついでに人を死ぬほど叩き落とす、と」
視線を落とし、自分の姿を確認する。
服は散々に引き裂かれ、露出した肌には縄の跡と火傷の痕がいくつも残っている。血はすでに乾いていた。
素足で砂利と泥を踏んだ瞬間、足裏に鋭い刺激が走る。
「この格好……サバイバルでもやれってのか?それともこのまま野垂れ死ねって?」
千里は小さく笑う。
「靴すらないのに、せめて銃くらい残してくれてもいいだろ。筋が通ってないな」
千里は歩き出した。
――ここがどこだろうと、このままここに突っ立ってるのは絶対に悪手だ……。
――まずは高いところを見つけて、状況を確認しねえとな。
▽▽▽
傾斜は緩い、だが足元は砕けた石だらけだ。踏むたびに足裏が裂ける、鋭い痛みが走る。
途中で立ち止まり、息を整えながら、見えない「善人」に向けて一言毒づいた。
「なんて気の利くクソ野郎だ。おかげで最高に清々しい気分だぜ」
苛立ちを足に込め、千里は再び斜面を登り始めた。
頂上に達した瞬間、視界が開けた。
目の前に広がっていたのは、見渡す限りの森だった。
千里の顔から、少しずつ余裕が消えていく。
「……おかしくないか、これ」
海辺千里はまばたきをした。
「どこ見ても森じゃねえか」
千里はさらに前方へ目を向け、どこかに人の気配がないか、焦ったように探した。
「朝は港にいて、昼には縛られてて、午後には森の中って……どういう一日だよ!」
ほどなくして、彼は森の中に一本、伸びる跡を見つけた。
――川ではない、獣道でもない。道だった!
「よし。こんな道を作れるってことは、先には村か砦か、とにかく人間がいるはずだ」
千里はその道をたどるように、さらに遠くへ目を凝らした。
道の先に、ひとつの要塞が立っていた。
眼差しに潜んでいた焦りが消え失せた。
「少なくとも、方向だけは決まったぜ」
彼は額の汗を手の甲でぬぐい、要塞を見据えた。
「あの要塞、俺がどこにいるかくらいは知っててくれよ」
海辺千里は道の方向へ歩き出す。最悪の事態を考えながら。
――あそこを逃げ出したところで、次は何だ?追われる、指名手配される。別の場所で不運が続く。少なくとも、森よりは安全だな。
不意に、遠くから水の音が聞こえてきた。海辺千里の心臓が跳ね、瞳が明るくなった。
「……水!」
思わず声が漏れ、足が自然と速まった。
音のする方へ走る。
木立を抜けた先に、透き通る水の池がぱっと視界に開けた。
海辺千里は口元をわずかに緩め、こんなに澄んだ水に顔をほころばせた。
「ふぅ、これでようやくサッパリできるぜ」
だが、水辺に近づくにつれて、足元の感触に違和感が混じり始めた。ときおり、石のようなものを踏む。
数歩進んだところで、思わず下を覗き込み、すぐに後悔した。
「……これは!」
――これは石ではない!……少なくとも、全部ではない……
――骨だ。鳥の骨?そして判別のつかない何かの骨……
海辺千里は反射的に半歩下がり、距離を保ったまま水面を見据えた。
――そういえば、いくらなんでもこの水は澄みすぎている。岸辺の骸骨を除けば、何もない。
――魚影もなければ、漂うゴミすらない……これは、おかしい。
――森の水が、ここまで“何もない”状態で保たれるはずがない。
――まして、その辺に砕けた骨が転がってるなんて、なおさら異常だ。
胸の奥にわずかな不安はあったが、喉の渇きのほうが勝っていた。
頭のどこかで、もう一つの声がそれを正当化し始める。
――どう見ても、地下から湧いた泉だ。水の中に生き物の気配はない。なら、危ない生き物もいない。
――流れてるし、きれいだし、変な匂いもない。 この条件なら、どんなサバイバル本でも「飲める水」って書いてある。
――少なくとも、このまま我慢するよりはマシだ。




