漆黒の影の登場
二人はパニックに陥り、周囲を見回したが、足の裏から伝わる震えを除けば、巨大な獣が迫るような物音は一切しない。
千里は顔中汗だくになりながら焦っていた。
「どこだ!?どこにいる!? アメイ、こいつは姿が消せるのか!? 俺たち、どこに逃げればいいんだッ!」
「僕だって分かんないわよ!」アメイもすっかりパニックになり、呆然と辺りを見回していた。
そして、やがてその視線はゆっくりと下へ……地面へと向けられた。
土に混じった小石が、彼らの足元で規則的に波打っている。
「もしかして……下、かも」
ゴゴゴゴゴッ!
震動が一気に激しさを増し、地面が大きく波打った。
「撤退!!」アメイの顔に恐怖が走った。
二人はほぼ同時に踵を返した。
だが、その第一歩を踏み出すよりも早く、地面が陥没した!
まるで底が抜けたかのように土の層が沈み込み、すさまじい勢いで拡大する陥没穴と化す。
千里は足場を失い、そのまま下へと滑り落ちた。反射的に腕を伸ばし、灌木にしがみつこうとした。
しかし、その手は空を切る!
「終わった!」千里の顔が青ざめた。
だがその直後、アメイが間一髪で千里の伸ばした手を掴んだ!
崩落する泥と石が、あっという間に千里の下半身を飲み込む。
アメイは摩擦を稼ぐために地面に仰向けに倒れ込み、両腕にありったけの力を込めて千里の手を引っ張り上げた。
「重すぎるわよ、自分でなんとか力入れなさいよ!!」
「力入れたくても、足場がねえんだよ!」千里は叫び返した。
二人の下から土がとめどなく流れ落ち、陥没はさらに広がる気配を見せている。
少しずつ下へ滑り落ちてくるアメイの姿に、千里は強く歯を食いしばった。
――崩落はまだデカくなってる……このまま手を離さねえと、二人とも終わりだ……
――仕方ねえ、俺が自分勝手で死ぬのが怖いクソ野郎だってことを恨んでくれ!
「すまねえ、アメイ隊長!」
「え? 今、なんて呼んだの……」アメイが呆気に取られて声を漏らす。
千里は咄嗟にもう片方の手を伸ばし、両手でアメイの左腕を強く握りしめた。
彼はアメイの左腕を絶対的な支点として扱い、純粋な腕力と体幹の力に任せ、暴力的な懸垂で一気に身体を引き上げた。
千里はそのまま一気に穴から跳び出し、アメイの横へと転がり込む。
「ぎゃあああっ! 痛いぃ……この大馬鹿野郎めッ!!」アメイが悲鳴を上げ、涙をこぼした。
千里はすぐさま起き上がると、身を屈めてアメイの下に潜り込み、背中と両肩で彼女の胴体を担ぎ上げた。
そして彼女の両脚と右手を抱え込むと、全速力で駆け出す。
「報告します隊長、残念ながら左腕は骨折したもようです!」千里は荒い息をつきながら叫んだ。
「ですが副手である俺が、隊長の腕の欠損を完璧にカバーしましたぜ!」
アメイは激痛に歯軋りし、涙と鼻水を流しながらわめいた。
「よくもこの期に及んでふざけた冗談を……ぶっ殺してやるっ!」
アメイは千里の左肩にガブリと噛みついた。
千里はそのまま安全な距離まで走り抜け、ようやくぐらつかない頑丈な大地を踏みしめた。
だが、彼がアメイを下ろした、まさにその瞬間。前方の地面が不自然に膨れ上がった。
「うそ……まさかこれ!」アメイが顔色を失った。
直後、地表が爆発したかのように弾け飛んだ。大量の泥と砕けた石が宙に放り出され、地底から巨大な影が突き出してきた。
▽▽▽ ほぼ同時刻、要塞の別の一角。
ロベルトは泥濘んだ地面に這いつくばっていた。鎧には泥がこびりつき、鉄の手袋をはめた手で土を掘り返している。
彼らの一行は四人三馬。ロベルトを含む三人の兵士と、あの触角の女が、この一帯を巡回していた。
その女は訝しげな表情を浮かべており、もみあげのあたりにある触角を微かに震わせた。
「上から渡された座標だと、ここで異常な震動が起きたはずなんだけど。
でも不気味なことに、目撃情報はおろか、這いずった跡もなければ、排泄物や鱗の欠片すら残っていない」
ロベルトは鉄手袋についた泥を払い落としながら立ち上がり、そして目を細め、他の三人に視線を向ける。
「ひとまずの推測だが、あれほどの震動を引き起こせるのは大型の個体しかあり得ない。
なのに、発生源の地形が一切荒らされていないとはな……」
長槍を構えた兵士が、平らに均された泥地を見つめながら口を開く。
「筋が通りませんね。周囲の環境に完全に溶け込めるのか、それとも……そもそも地表で活動していないか、ですね」
女の耳元にある触角が揺れ、その顔色が急変した。
「まさか、指定絶滅リストに載っている完全有害生物……地竜のこと!?」
ロベルトは泥に触れた鉄の手袋を鼻先に近づけて嗅ぐと、ハッとして表情を引き締めた。
「確かに、地竜だとすればすべて説明がつく。地底からかすかな腐敗臭が滲み出ているな」
「あり得ません……」もう一人の女性兵士が目を見開き、激しく首を振った。
「紡命巣都の大規模な掃討作戦で、奴らはこの世界から徹底的に排除されたと宣告されたはず!」
長槍の兵士が皮肉っぽく苦笑いを漏らす。
「巣都のお偉方は悪の根を絶ったつもりだったんだろうが、どうやら生命ってのは案外、出口を見つけ出すもんさ」
触角を持つ女は、その触角を微かに下へと垂らし、ごくりと唾を飲み込んだ。
「こんな暗い地下の底で、まだ血脈を繋いでいたなんて……私たちだけで対処できるの……?」
「いえ、不可能ね」女性兵士は顎を撫でながら答えた。
「地竜は高い知能を持っています。地中深くに引きこもって我々を翻弄し続け、さらには広範囲にわたる陥没を引き起こすでしょう」
「そいつは最高に厄介だな」ロベルトは険しい顔で眉間を揉んだ。
「要塞はすでに奴の活動範囲に入ってる。早く手を打たねえと、とんでもない死傷者が出るぞ……
どうしてもここで仕留められないってんなら、最上位列に泣きつくしかねえな。
あいつらの手で直接この地面をひっくり返させて、強引に引っ張り出してもらうしかねえ」
「でも……」長槍の兵士がため息をつく。
「伝鳥が手紙を届けてから、連中がこっちに駆けつけるまで、どんなに早くたって数日はかかりますよ」
ロベルトは振り返り、地平線の果てにそびえる巨大な建造物の影を、険しい眼差しで見つめた。
「ああ、大食要塞の土台がそれまで持ちこたえてくれるといいがな。さもなきゃ、あの拠点は地図から消滅する」
▽▽▽ アメイたちの方では。
重力を取り戻した泥と砕石が、雨のように降り注ぐ。
飛び散る石のせいでアメイは危うく転びそうになった。
海辺千里が手を伸ばして腕を引っ張り、二人はよろめきながらもなんとか足場を固めた。
影が完全にその正体を現す。
そいつは地表に横たわっていた。幅三メートル、長さ六メートル。全身が漆黒に染まり、粗く乱れた鱗には鉱石がこびりつき、腐敗した土の強烈な臭いを放っている。
アメイは反射的に後ずさりしそうになったが、即座に堪えた。
「地竜……」アメイは怯えきった息だけの声で漏らした。




