迫り来る顎
千里は右手の軍刀を固く握り締め、背後へ向けて盲滅法に突きを放った。
肉を貫く生々しい感触と共に、背後にいた幻彩狼が牙を離す。だが、またしても聞き慣れたアメイの悲鳴が耳を打った。
――黙れ、この畜生が!
激昂した千里は手応えだけを頼りに二撃目を放ち、刀身を再び深々と血肉へねじ込んだ。
すると突如、四方八方から幾重にも重なった無数の悲鳴が響き渡る。
さらに、手の中の軍刀がぐにゃりと歪んだかと思うと、凶悪な極彩色の蛇へと姿を変え、大きく口を開けて襲いかかってきたのだ。
――なんだと!?
千里は思わずゾッと身震いしたが、それでも蛇の胴体を握りしめ、決して手を離さなかった。
――こんな下劣な小細工で武器を手放させようったって、もう二度と騙されねえぜ!
千里は泥だらけの地面から素早く起き上がり、警戒しながら周囲を見回したが、眼前の光景は相変わらず無数の狼が極彩色の霧の中を駆け巡り続けていた。
――どうしてまだこんなイカれた光景が続く? 呼吸はずっと止めていたはずだ、なぜだ!?
その時、千里の眼球に強い痒みが走り、思わず涙が溢れ出した。
――目か!? この粉塵、呼吸からだけじゃなく、眼球に付着しただけでも直接幻覚を引き起こすっていうのか!
千里は手を伸ばし、解毒剤を取り出した。そして、そのまま自分の額に力任せに打ち付けて叩き割った。
ビチャッ!!
薬液が両目へ流れ込み、焼け付くような激痛が込み上げてきたが、千里は決して目を閉じなかった。
薬液が粘膜に付着した粉塵を中和し、焼け付くような痛みの後、歪んでいた視界が現実の景色を取り戻した。
だが、その本物の視界の中で千里を待ち受けていたのは、無数の鋭い牙が並ぶ巨大な顎だった。それが真正面から顔面へと迫っていた!
その大口が迫り来るのを目の当たりにし、彼は両脚に力を込め、意図的に足元を滑らせて体全体を勢いよく後ろへ倒れ込ませた。
背中が地面に触れるギリギリの刹那、千里は無理やり腰をひねり、落下と回転の遠心力を軍刀に乗せて、鋭く一閃を放つ。
刃が頸椎を断ち切る確かな感触が伝わり、狼の首が宙を舞う。頭を失った胴体は千里の頭上を飛び越え、すぐ傍らに転がった。
千里もそのまま地面に倒れ込む。限界まで息を止めていた酸欠状態と、急激な筋肉の酷使による反動が限界を超えて襲いかかってきたのだ。
――マズい、息を止めていた反動が来やがった……脳みそが揺れて、視界がぼやける……暗え……
それでも彼は眩暈を強引に堪え、酸欠で引きつる手足を無理やり動かして、這うように起き上がった。
極彩色の瘴気の中で、アメイの姿を探す。
前方では、アメイが木の幹を背にしてうずくまり、恐怖に震えていた。彼女はマントを外して左腕に巻き、即席の盾代わりにして体の前に構えている。
その瞳は虚ろで、明らかに深い幻覚に囚われていた。
狼が襲いかかってくる瞬間、彼女はマントを巻いた左腕を持ち上げて自ら狼の口にねじ込み、右手の短剣で盲滅法に刺し返していた。
幻彩狼が短剣にひるんで再び後退すると、アメイは苦しげに咳き込みながら、周囲の濃霧に向かって泣き叫んだ。
「斬った! 今、斬ったわよね! 見てた!? ゲホッ、ゴホッ……なんでこんなに血が……
これ、あんたの血じゃないよね? ねぇ、返事をしてよ!」
幻彩狼が地面に這いつくばり、次の瞬間、再びアメイへ向かって猛然と飛びかかった。
だが空中に身を躍らせた瞬間、背後から放たれた千里の軍刀がその胴体を貫き、地面に串刺しにした。
その勢いのまま、千里は地面のアメイを抱え上げ、肩に担ぐなり、振り返りもせずに極彩色の霧を突き破って駆け出した。
霧の外へ飛び出した途端、千里は限界を迎えて完全に脱力し、肩の上のアメイを無造作に道の上へ落としてしまう。
彼自身も膝の力が抜け、無様に地面へ這いつくばりながら、激しくえずいて荒い息を吐き出した。
一方、アメイの瞳はいまだ虚ろだった。突如地面に叩きつけられた彼女は、恐怖のあまり両手をでたらめに振り回す。
「いっ……痛ぁっ! 海辺千里!? 今どういう状況なのよ、狼はどこ!? 僕をどこに投げ捨てたのよ!」
アメイは手探りで地面を這いずり回っていた。
「ゲホッ、ゴホッ……景色がぐるぐる回ってる……さっき僕を担ぎ上げたのも幻? いや、お尻の痛みは本物だ! くそっ……」
地面に突っ伏して息を整えていた千里は、傍らでアメイがでたらめに歩き回っているのに気づき、とっさに手を伸ばして彼女の腕を掴んだ。
「おい、止まれ!もう安全だ……それ以上進むと、そっちの気色悪い泥沼に落ちるぞ」
「千里?」腕を掴まれたアメイが振り返る。その虚ろな瞳は、目の前の人影に焦点を合わせようと必死に動いていた。
「なんであんた、頭が三つに増えてるの? しかも何わけのわからないこと言ってんのよ!」
千里は眉をひそめ、口を動かして何か反論しているようだった。
だがアメイの耳には、逆再生したような奇妙な音声しか届かない。
アメイは呆然とし、やがて眉をひそめて考え込んだ。
「なるほどね……この幻覚、ただ目と耳を騙してるだけじゃない。僕の言葉を理解する能力まで狂わせてるんだ!
ってことは、この状態じゃ声に出して話しても、お互いの誤解を深めるだけってこと!」
「いや、違う……」アメイは首を傾げて思考を巡らせた後、やがて顔に狂喜の表情を浮かべ、見当違いの方向を指差した。
「あんたが僕の腕を正確に掴めたってことは、幻覚の影響を受けてない証拠じゃない! あんた、正気なんだわ!」
アメイは大げさに身振り手振りを始めた。
「まともだって言うなら、そんな変な言葉で喋ってないで、僕に合図を送りなさいよ!」
アメイは目を閉じ、真剣な表情を浮かべた。
「聞いて! 安全なら左肩を二回、危険なら右肩! どっちでもないなら腕をつねって!
……あり得ないとは思うけど、もしあんたが神がかって奴らを全滅させたなら、僕の頭を叩いて!
あと、今はどこ? 霧の中なら背中を一回、外なら二回叩いて……いや違う、
万が一あんたも毒を食らってて無理してるだけだったらどうするの?
死にかけてるなら僕の顔をつねって……いやダメだ、あんた馬鹿力だから顔が崩れちゃう!
僕の手のひらに丸を書いて! 違うならバツ!
ねえ、千里!聞いてるの!? 早くやって、僕の推測が正しいって証明してよ!」
千里は深くため息をつき、顔の冷や汗を拭った。緊張で顔をこわばらせ、何もない空間へ手を伸ばすアメイを静かに見つめる。
「マジでめんどくせえし、手のかかる奴だ……」
千里は残った右手で体を引き起こし、アメイの頭を叩いた。
▽▽▽ 三十分後。
三十分の時が流れ、彩粉の毒がついに抜けた。だが、アメイが目を覚まして一番にしたことは、狼の血と泥にまみれた千里の新しいコートを指さして大笑いすることだった。
「ぷっ……あははははっ! 前にどっかの誰かさん、大金叩いて買った新しい服をすっごく気にしてなかったっけ?
狼の血に臭い泥を合わせるなんて、いくらなんでも前衛的すぎるわよ!」
千里は素早く手を伸ばし、アメイの緑の髪に絡みついていた泥だらけの葉っぱをむしり取った。
「俺たち、どっちも似たようなもんだと思うぜ。お前も俺と大して変わらねえよ。ほら、口の端によだれがついてるぜ」
アメイは慌てて口元を拭い、自分の服についた泥や枯れ葉を見下ろすと、たちまち笑顔を引っ込めた。
「腹立つ……」
千里は完全に元通りになった左手をじっと観察した。血の跡こそあるものの、傷は完全に消え去っていた。




