アルバム
アルバムというものは、過去を保存するための装置だと一般には理解されている。
だが実際のところそれは過去をどう見せたいかという現在の意図の堆積に過ぎない。写真は偶然を切り取りながらして同時に恣意の産物でもある。撮る者の選択さらには残す者の判断、その双方によって「記憶」は形作られる。
私は無造作にアルバムを開き、ページに並ぶ数枚の写真を眺めた。日常のとある一幕らしい。笑顔とピースサイン、左に寄った背景。どれも整っていて、いかにも「良い思い出」として適切な配置を与えられている。しかしそれらの写真に写る自分の表情はあまりに均質だ。私はカメラを前にするとこうも同じ動作しかしないのか?
いや、人間の感情がそこまで反復的であるはずはないと考えるのが自然だろう。つまりそこにはそういう顔をしていると都合が良いという判断が働いていると見るべきである。つまり、写っているのは感情の結果ではなく、感情の演出である。当然のことともいえるだろうか?私は妙な納得感を覚えていた。
ページを進めて私は思わず苦笑する。見事なまでにその場において期待される表情を再現している。楽しげな場面では楽しげに、真面目な場面では真面目に。そこにあるのは自然な振る舞いではなく状況に対する最適解の提示だ。
私はふと、先ほどの妙な納得感に違和感を覚えた。
私は優等生ではない。カメラを前にして求められた構図をとるのか?後の自分のためないし他者のために?集合写真に写りたがらないような私だぞ?
写真の中の自分はあまりにも優等生であると感じた。求められる通り演じ、記録として最適な形で収まっている。だが、その優等生ぶりは、裏を返せば選択の余地のなさを意味している。別の表情、別のポーズ、奇抜なアングル——そうした分岐の可能性がまるごと排除されている。ふと手が止まる。私は...
A
思ったよりも早くも来てしまったようだ。
この思ったよりはいつの誰の思ったよりなのか。
カメラを向けられる。私はいつものポーズをとり、いつも通りの笑顔でシャッター音を聞いた。
ふと見ると机の上にアルバムが広げられている。
私はアルバムを棚にしまい、夕食の支度に取り掛
何も深い話ではありません。
何も考えずに書いていますから。
というか後ろ二つと三部作にしたかったから付け足しただけっていう。




