5 魔力暴走と病の深刻さ
(……なに、この感じ)
今まで感じたことのない空気の変化に、足を止めたリディアは、アルヴィスに問いかけようと振り返った。
「アルヴィ……」
名を呼びかけようとしたリディアは息を呑んだ。
アルヴィスは、口元を手で押さえ、もう片方の手が、胸を掴むように押さえていた。
その指先が、わずかに震えている。
「——ぐっ」
何かを堪えるような押し殺した声がして、アルヴィスの上体が前のめりになる。
そして、口元を押さえていた指の隙間からに、赤黒いものーー血液が滴った。
アルヴィスはそのまま、糸が切れたように膝から崩れ落ちた。床に手をついたが、支えきれずに倒れ込む。固く目を閉じたその顔に、苦悶の色が張り付いていた。
「アルヴィス様ッ!!」
リディアは咄嗟に駆け寄ろうとした。
血で窒息しないように、顔を横に向けなければ——考えるより先に身体が動いていた。
しかし。
「——っ!」
一歩踏み出した瞬間、全身を強い衝撃が突き抜けた。冬の乾いた空気の中で金属に触れたときの比ではない。皮膚を、骨を、内側から弾かれるような反発だった。思わず後退り、壁に手をつく。
(な、に、これ……)
空気が、見えない何かで満ちている。肌がじりじりと熱い。呼吸のたびに、胸の奥が締め付けられるような圧迫感。
それはアルヴィスの身体から発せられいる魔力のようだった。
普通の病ではない。
そう悟った瞬間、背を冷たいものが伝った。本能的な恐怖だった。近づきたい、でも近づけない——リディアは唇を噛んで、その場に立ち尽くした。
扉が開いたのは、そのときだった。
「旦那様——」
入ってきたレイモンドは、床に倒れたアルヴィスを一目見て、目を一瞬見開く。
「グレイ先生を呼んでまいります」
レイモンドは、そう言うとすぐに踵を返した。
迷いのないその動きから、これが初めてではないことを語っていた。
リディアはアルヴィスから目を離せないまま、その場に立っていた。
床に倒れたまま、アルヴィスは動かない。眉間に深い皺が寄り、苦しそうに歯を食いしばっていた。
口元が赤黒いもので濡れている。
(せめて、顔だけでも)
リディアはもう一度、近づこうとした。しかし魔力の反発は消えていない。一歩踏み込むたびに、ビリビリとした強い電流が走り、痛みが生じる。
「お下がりください」
背後から、落ち着いた声がした。
四十代ほどの、眼鏡をかけた細身の男性だった。鞄から薬を取り出しながら、迷いなくアルヴィスへ近づく。レイモンドが呼んできた医師だ。
(慣れている……)
リディアは壁際に下がりながら、その様子を息を殺して見ていた。
グレイが薬を投与すると、しばらくして空気の圧迫感が薄れ始めた。アルヴィスの体から発せられていた、魔力が静かに収まっていくのが分かった。
固く閉じられていた目はそのままだったが、歯を食いしばっていた口元が、少しだけ緩んだ。呼吸が、浅いながらも規則的になっていく。
リディアは、その横顔から目が離せなかった。
苦しそうに眉を寄せたまま、意識を手放したアルヴィスの顔。
——重なる記憶があった。
緩和ケア病棟への転院を待ちながら、静かに痛みに耐えていた患者の顔——。
リディアは、唇をそっと引き結んだ。
アルヴィスが使用人たちによって自室へ運ばれていくのを見送り、リディアは別室へ案内された。
グレイが向かいの椅子に腰を下ろし、静かにリディアを見た。値踏みするような目ではなく、何かを測るような、慎重な視線だった。
「……どこか、怪我は?」
「いいえ」
「魔力の余波を受けたはずですが」
「少し、痺れましたが大丈夫です」
グレイは小さく息をついた。それから、組んだ手を膝の上に置いた。
「あなたは、旦那様のご病気について、どれくらい知っていますか?」
「体調が優れない、程度です」
それも噂で聞いたのと、アルヴィスの顔色や机の上にあった薬を見て分かった程度である。まだ、アルヴィスの病気については何も知らないに等しい。
「リディア様は、昨日嫁いで来たばかりですので……」
補足するようにレイモンドがグレイに告げる。
「そうでしたか。では、少しだけ説明をしておきましょう」
グレイは頷き、言葉を続けた。
「旦那様が患っているのは、魔力回路閉塞症です」
「魔力回路閉塞症……?」
病名だけは聞いたことがあった。
「体内を循環する魔力のバランスが崩れ、制御できなくなる病です。魔力は本来、体内を一定の流れで巡るものですが——閉塞が起きると、行き場を失った魔力が暴走を始める。今、見たものが、その発作です」
リディアは黙って聞いていた。
「現時点では、治療法はありません」
グレイは言葉を選ばなかった。
「対症療法のみです。発作を抑える薬、痛みを和らげる薬——それで、進行を少しでも遅らせることしかできない」
「……かなり、深刻な状態なのですか」
「正直に申し上げます」
グレイはリディアを真っ直ぐに見た。
「旦那様の病状は、すでにかなり進行しています。発作の頻度も、強度も、以前より増している。今日のような発作が続けば——いずれ、身体が耐えきれなくなります」
リディアは膝の上で、手をギュッと握った。
「教えて頂きありがとうございます」
リディアは立ち上がり、頭を下げた。
廊下へ出ると、屋敷はしんと静まり返っていた。
治療法はない。
発作は続けば、身体はいずれ耐えきれなくなる。
グレイの言葉が、静かに胸の中で反響していた。




