4 執務室の環境改善
「ノル……アルヴィス様の娘さんのお名前を聞いても?」
ノルデン公爵様と呼びかけたが、形だけとはいえ妻となったので、リディアは言い直す。
そして、夕食の支度ができたと伝達に来たレイモンドに尋ねた。
「フィア様、と仰います。フィア・フォン・ノルデン様です」
「フィア様……」
リディアは小さく繰り返した。「ご年齢は五歳です」とレイモンドは続けた。それ以上の説明はなかった。
「夕食の前に、一度ご挨拶をと思うのですが」
リディアが申し出ると、レイモンドは少し間を置いてから「お伝えしてまいります。お待ちください」と、スッと足音もほとんど立たずに去っていった。
しばらくして戻ってきたレイモンドの表情は、変わらず穏やかだった。しかしその目が、ほんのわずかに困ったように細くなっていた。
「……フィア様は、今日はお会いになりたくない、と」
「そうですか」
リディアは微笑んだ。
「わかりました。また改めます」
無理に押しかけることもない。
これまで、リディアの前にも何人かの女性がアルヴィスの元に嫁ぎ、去ったと聞いている。ということは、その数だけフィアは出会いと別れを経験していることになる。小さな子にとって、大きなストレスとなっているだろう。新しい母親に対して警戒していてもおかしくはない。
(時間はゆっくりあるのだもの。焦ってはだめよね)
夕食は、一人だった。
広い食堂に、一人分の食器が並んでいる。テーブルの長さに対して、あまりにも寂しいと感じた。
料理は、リディアが今まで食べたことのないものばかりだった。艶やかな肉料理、繊細な細工を施したパイ、色とりどりの野菜が美しく盛り付けられたサラダ。子爵家では口にしたこともないような食事が、次々と運ばれてくる。
どれも文句なしに美味しかった。
けれど、広い食堂に響くのは自分が食器を置く音だけで、誰も話さず、誰も笑わない。緊張を差し引いても、食事というより作業をこなしているような気持ちになった。
子爵家の食卓は、とても質素だった。
でも、その日あったことを話し、父と母と笑いあった日々——あの賑やかさを、今更ながら懐かしく思った。
(慣れるしかないわね)
リディアは静かにスープを口に運んだ。
夕食を終えて部屋に戻ると、マーサが湯浴みの準備を整えて待っていた。
侍女頭のマーサは、丸みのある体つきの、四十代半ばほどの女性だった。てきぱきとした動きは有能そうで、しかし表情はどこか値踏みするように硬い。
「どうぞ」
簡潔に言われ、リディアは戸惑いながら湯浴みを済ませた。
髪を乾かすのも、寝間着に着替えるのも、マーサが手伝おうとする。子爵家では全て自分でしていたことだ。人の手を借りることに、どうにも慣れない。
「あの、自分でできますので……」
「奥様のお世話をするのが、私どもの仕事です」
マーサは表情を変えないまま、きっぱりと言った。
「慣れてください」
有無を言わさない口調に、リディアは苦笑いをこらえながら「……はい」と頷くしかなかった。
◇◇◇
翌朝、空が白み始める前にリディアは目を覚ました。まだ夜だと言っても良い時間だ。
それは、長年の習慣だった。
子爵家では家事を始める時間がそのくらいで、身体が自然と覚えてしまっていたのだ。
窓の外は、まだ薄暗い。庭園の輪郭がうっすらと見える程度だった。
フィアのことを、一瞬だけ考えた。しかしこんな早朝に押しかけるのは得策ではない。昨日「会いたくない」と言われたばかりでもある。
(何か、できることをしよう)
リディアは静かに着替えを済ませ、庭へ出た。
朝の庭は、静かだった。
外に出るころには、少しだけ空も明るくなり、草花の輪郭や色も視えるようになっていた。
すうっと息を吸い込めば、清浄な空気が肺腑を満たした。
(やっぱり、朝の空気は気持ちが良いわ)
昨日レイモンドに許可をもらっていたので、リディアは庭の一角に咲いていた花を数本、丁寧に摘んだ。白と淡い紫の、清楚な花だった。葉の色が濃く、茎がしっかりしている。飾っても長持ちしそうだと判断した。
それから、リディアはアルヴィスの執務室へ向かった。
扉の前に立ち、そっと中を覗く。明かりはついていたが、人影はなかった。
リディアは静かに中へ入った。
燭台の蝋燭が、根元近くまで溶けている。リディアは眉をひそめた。リディアが昨日訪れた時は、蝋燭はまだ新品に近い長さだった。それが、こんなに溶けているということは夜通し、ここで仕事をしていたということだろうか。
(ということは、まだ就寝して間がないわよね。まだ戻ってこないはず……)
リディアは迷わず、カーテンへ向かった。
布地を引くと、朝の光が勢いよく差し込んできた。続いて窓の鍵を外し、押し開ける。冷たく澄んだ空気が、すっと室内に流れ込んだ。
淀んでいた空気が、少しずつ動き始める。
リディアは持ってきた花を窓辺に置き、昨夜部屋から持ち出してきた小さな花瓶に活けた。白と紫の花が、朝の光の中でやわらかく輝いた。
(少しだけ、空気が良くなったかしら)
満足げに眺めていたそのとき。
背後で、扉が開いた。
「……っ」
振り返ると、アルヴィスが立っていた。
昨日と同じ無表情。しかし、その目がリディアを捉えた瞬間、わずかに細くなった。
「私には関わるなと、言ったはずだが」
低い声は感情を削ぎ落としていたが、咎める意図は明らかだった。
(うそ、もう戻っていらしたの。早いわ!)
リディアは焦りながら、表情に出さないように
背を正した。
「ええっと、フィア様がこちらにいらしたときに、居心地が良い方がいいと思いまして」
咄嗟に出た言葉だったが、半分は本当のことだ。
残り半分は——病には、清浄な空気が必要だという判断からだった。淀んだ空気の中で長時間過ごすことが、身体に良いはずがない。昨日からそれが気になっていた。
「フィアがここへ来ることはない」
アルヴィスは端的に言った。
「……そうなのですか?」
「ああ」
それ以上説明するつもりはない、という口調だった。
「仕事の邪魔だ。出ていってくれ」
リディアは一瞬だけ花瓶を見た。朝の光の中で、白と紫の花が静かに揺れている。
(せっかく開けたのだから、せめて少しだけでも)
そう思いながらも、ここで粘るのは得策ではないと判断した。今日のところは退くしかない。
「失礼しました」
リディアは軽く頭を下げ、執務室を出ようとした。
その時、部屋の空気がざわりと揺れた気がした。
皮膚の表面を何かが撫でるような、息が浅くなるような——うまく言葉にできない感覚に、リディアは足を止めた。




