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【完結】余命わずかな冷徹公爵様に嫁いだので、最期くらいは穏やかに過ごしていただくはずでした  作者: 佐倉穂波


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3 ノルデン公爵との対面

 公爵の執務室は、屋敷の奥まった場所にあった。

 すれ違う使用人たちはみな静かで、足音まで殺しているような、そんな張り詰めた空気があった。窓から差し込む光も、どこか暗く感じる。

 しばらくして、レイモンドが足を止めた。

 重厚な黒檀の扉の部屋だ。金具の一つひとつまで丁寧に磨かれていて、触れることをためらうような威圧感がある。ここが公爵の部屋だと、言葉もなく語っていた。


「旦那様」

 レイモンドが扉を三度、静かにノックした。

「リディア様をお連れしました」

 返事はない。

 しかし、レイモンドは慣れた様子で扉を開けた。

 促され、リディアは一歩、中へ踏み込んだ。

 室内はカーテンが閉め切られ、薄暗い。燭台の炎が、ゆらゆらと揺れ、壁に映る影を小さく揺らしていた。空気はどこか時間が止まったように滞っていた。

 壁一面を埋める書棚、山積みになった書簡——その向こうに、人影があった。

 リディアは息を呑んだ。

 灰白色の髪に青白い肌。切れ長の目は氷を溶かしたような青で、ひどく静かな光をたたえていた。整った顔立ちは、美しい——儚く病的な美しさだった。

 ノルデン公爵、アルヴィス・フォン・ノルデン。

 その人は、リディアをちらりと一瞥した。値踏みするでもなく、歓迎するでもなく、まるで書類を確認するような目だと、リディアは思った。

「リディア・ウェインライトか」

 耳に心地よい低い声は、無感情にリディアの名を口にした。

「——っ、はい」

 アルヴィスに目を奪われていたリディアは、慌てて返事を返した。

「私が君に求めるのは、娘の世話だけだ。私にはあまり関わらないでくれ。それだけ守ってもらえれば、他には何も求めない」

 業務伝達のように淡々と告げられた言葉は、思ってもみなかった内容で、リディアは目を瞬いた。

(娘さんのお世話? 公爵様にはお子さんがいらっしゃるの? それに、関わらないようにって……どうして?)

「……娘さんの、お世話ですか?」

「ああ」

 アルヴィスは視線を書類へ戻しながら言った。

「それ以外に、君に求めることはない」

 それだけ言うと、本当に用は済んだとばかりに書類にペンを走らせはじめた。

「これに署名を」

 レイモンドが静かに近づき、一枚の書類をリディアへ差し出す。

 婚姻届だった。

 リディアはそれを受け取り、しばらく手の中で見つめた。上質な羊皮紙は滑らかで、すでにアルヴィスの署名が記されていた。黒いインクで書かれた、迷いのない筆跡だった。

 これにサインをすれば、正式にノルデン公爵家の人間になる。もう後戻りはできない。


 リディアは、視線を上げる。薄暗い部屋の中、黙々と書類に向かうアルヴィスの姿が目に入った。

 病的に美しいアルヴィスの姿を、リディアはもう一度だけ見つめた。それから、受け取ったペンを握る指に、そっと力を込めた。

 リディアは静かに、婚姻届にペンを走らせた。

 書き終えた婚姻届を、レイモンドに渡す。


「それでは、お部屋へご案内いたします」

 レイモンドに促され、リディアは部屋を辞した。

 扉が閉まる直前、もう一度だけ室内に目をやった。


 机の端に、薬の瓶がいくつか並んでいた。雑然と置かれた様子から、日常的に服用していることがわかる。リディアも目にしたことがある鎮痛剤の袋もあった。

 閉め切られたカーテン。動かない空気。薬の瓶。青白いアルヴィスの顔。

 ——余命が長くない。

 噂で聞いたその言葉が、目の前の現実として胸を打った。

 公爵は患っている。それは確かだ。どんな病かはまだわからないが、体調が芳しくないのはわかった。

(あんなに、閉め切った部屋で……)

 長い時間をあの部屋で、あの空気の中で過ごしていれば——身体にいいはずがない。

(娘さんの世話だけ……か)

 リディアは廊下を歩きながら、静かに考えた。

 私にはあまり関わらないでくれ、と言われた。その言葉は本心だろう。それでも、目に入ってしまったものは、仕方がない。

 知ってしまったら、見なかったふりはできない性分だった。


 案内された部屋は、広かった。

 子爵家の自室が三つは入りそうな広さに、天蓋付きのベッド、化粧台、窓際には小さなソファまで置いてある。調度品はどれも上質で、丁寧に手入れされていた。

 けれど、どこか冷たい。

 人の温もりが、長いあいだ宿っていない部屋の匂いがした。飾り気のない壁、閉め切られた窓、埃ひとつないのに、どこか息が詰まるような静けさがあった。

 リディアはしばらく部屋の中心に立ったまま、ゆっくりと室内を見渡した。

 それから、窓に近づいた。鍵を外し、静かに押し開ける。夕暮れの風が、するりと頬を撫でた。遠くに、手入れの行き届いた庭園が見えた。


 この屋敷でやっていけるかどうか、まだわからない。

 でも、窓を開ければ風は入ってくる。

 空気を入れ換えることはできる。


「よしっ」

リディアは、気合を入れるように小さく呟いた。

——こうして書類一枚で、リディアは『リディア・フォン・ノルデン』となった。

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