2 ノルデン公爵家へ
旅立ちの朝は、曇り空だった。
屋敷の前に止まった馬車を見て、リディアは思わず足を止めた。深い藍色の車体に、金の装飾が施された四頭立ての馬車。御者台には制服を着た御者が二人。扉には双頭の白狼と氷華があしらわれた紋章が刻まれている。
ノルデン公爵家の紋章だ。
リディアは自分の姿を見下ろした。何度も洗い直した薄茶色のワンピース。踵が少し擦り切れた革靴。持ち物は、着替えを詰めた小さな鞄一つだ。連れていく侍女も、付き添いの者も、誰もいない。
釣り合いの取れない絵だと、我ながら思った。
「リディア」
父が、掠れた声で名を呼んだ。いつも穏やかな父の表情が、今日は暗く沈んでいた。隣に立つ母も、笑おうとして笑えていない顔をしている。
二人とも、罪悪感を抱えているのだとわかった。援助のために娘を嫁がせてしまう、という。
「私が決めたことだから」
リディアは先に言った。
「心配しないで。幸せになる努力は、惜しまないわ」
父は何も言えない様子で、ただ深く頷いた。
母がリディアをぎゅっと抱きしめた。小さい頃から変わらない、温かい抱擁だった。
「身体に気をつけるのよ」
耳元で、母の声が聞こえた。
「ええ」
リディアは短く答えた。それ以上言葉を重ねると、泣いてしまいそうだったから。
馬車が動き出すと、子爵領の風景がゆっくりと流れ始めた。
窓の外を見ながら、リディアは静かに息をついた。見慣れた景色だった。手入れの行き届いていない道。荒れた畑。まばらな人影。
炊き出しに来ていた人たちの顔が、ふと浮かんだ。あの人たちの生活が少しでも楽になるなら——そう思った。
やがて、子爵領の境を越えた。
自領から出たことのないリディアには、見知らぬ景色が流れていく。
どれくらい馬車に揺られただろう。はじめは物珍しく景色を眺めていたが、いつの間にか、眠っていたようだ。
「もうすぐ、公爵領に入りますよ」
御者の声で、リディアは目を覚まし外の景色を見た。
広大な麦畑が地平線まで続いている。
街道沿いに立ち並ぶ家々は、どれも手入れが行き届いていた。市が立つ広場では、商人と客が賑やかに声を上げている。行き交う人々の顔に、活気があった。
王国内でも五本指に入る、ノルデン公爵領。その噂に偽りはなかった。
リディアは窓から身を乗り出すようにして、その光景を眺めた。
子爵領との差が、胸に刺さる。でも同時に思う。これだけの領地を治めている公爵家だ——それだけの力が、あるということだった。
丘が近づいてきたとき、リディアはその屋敷を初めて視界に捉えた。
小高い丘の上に建つ、石造りの大きな屋敷。白みがかった壁に、尖塔が二つ。整然と刈り込まれた生垣が、門から玄関まで一直線に続いている。
「わぁ」
思わず声が出た。
大きい。とにかく、大きい。
子爵家の屋敷が、あの建物の何分の一に収まるだろう。
(……本当に、縁談の相手は私で間違いないのよね)
そんなことを考えてしまうくらい、雲泥の差があった。緊張で、知らず知らず手がスカートの布を握っていた。
馬車が玄関前に止まると、すでに使用人たちが整列して待っていた。
先頭に立つ初老の男性が、静かに頭を下げた。
「お待ちしておりました、リディア様。執事のレイモンドと申します」
礼儀正しく、所作に一分の隙もない。
けれど、リディアは気づいた。整列した使用人たちの表情が、歓迎というには固すぎる。どこかよそよそしく、リディアを値踏みするような視線がちらほらとある。
(お金目当て、と思われているのかしら)
そうかもしれない。いや、そうだろう。
援助を受けるために嫁いできた子爵令嬢——そう見られても、おかしくはなかった。事実、間違ってもいない。
リディアはスカートを握る手に、そっと力を込めた。
それから、顔を上げた。
「今日から、どうぞよろしくお願いします」
緊張を隠すように、柔らかく笑った。
一度にすべてを打ち解けることはできない。でも、警戒されているなら、解いていけばいい。時間をかけて、丁寧に。
それは前世で、何度も繰り返してきたことだった。
患者さんと向き合うとき、いつもそうしてきた。最初から心を開いてくれる人なんていない。まず、こちらが誠実であることを、積み重ねていくしかない。
屋敷の扉が、静かに開いた。
リディアは一歩、踏み出した。




