1 今世の境遇と縁談
今世の私は、没落寸前の子爵令嬢リディアとして生まれた。
ウェインライト子爵家の財政は、私が物心ついたころからすでに苦しかった。使用人はおらず、掃除も洗濯も料理も、家族全員で手分けして行うのが普通だった。リディアも例外ではなく、近隣の商家へ刺繍の内職を持ち込んでは、家の足しにしていた。
それでも、不幸だとは思ったことはなかった。
両親は仲が良く、喧嘩らしい喧嘩を見たことがない。質素ではあるが、食卓を囲む時間はいつも温かかった。
リディアの密かな楽しみは、庭の一角で薬草を育てることだった。
魔法薬学に興味があったが、学園へ通う余裕はもちろんない。だから領地の小さな図書室で借りた本を読み、独学で勉強を続けた。
「花よりも草に興味があるなんて、変わってるね」
顔見知りの商家の娘にそう笑われたことがあった。
「いざというときに薬にもなるから、良いでしょう」
リディアは、そう笑い返した。
そんなリディアを、両親も「お金のかからない趣味で良いわ」と苦笑いしていた。
貧しいが、穏やかな日々を過ごしていた。
しかし、その年の夏は違った。
冷害による凶作と、山からの魔獣被害が重なり、これまでよりも更に財政が逼迫することになった。
家財を売り、家畜も売った。
リディアが丹精込めて育てていた薬草も、根こそぎ売りに出した。それでも、到底足りなかった。
週に数度、リディアは領地の広場で炊き出しを行った。
最初のうちは、来る人の顔に気力があった。「ありがとうございます」と頭を下げる声にも、まだどこか力があった。
けれど、日を重ねるにつれて、変わっていった。
老いた農夫は、以前より一回り小さく見えた。幼い子どもは、母親の陰に隠れたまま、鍋の中を潤んだ目で見ていた。いつも元気よく挨拶してくれる少年が、ある日から姿を見せなくなった。
「トーマスは、どうしましたか」
リディアが尋ねると、母親は目を伏せた。
「街へ出稼ぎに……ここにいてもどうにもならないから、って」
まだ幼い子供が出稼ぎに出なければならない現実。
リディアは、鍋を掻き混ぜる手を止められなかった。止めてしまったら、何かが溢れそうな気がした。
自分にできることは、できる限りのことをした。
でも、それだけでは足りなかった。
そんな折のことだった。
ノルデン公爵家から、縁談の打診が舞い込んだのは。
「ノルデン公爵家……?」
父が持ち帰った話に、リディアは思わず繰り返した。
ノルデン公爵家といえば、王家に次ぐ高貴な家柄だ。格式も、権威も、財力も、比べること自体がおこがましい。そんな大貴族様が、平民と変わらないような暮らしをしているウェインライト子爵家に、なぜそんな縁談が来るのか。
「援助の条件として、との話でな」
父は眉間に皺を寄せたまま、そう言った。
多額の援助。それは領地と領民の生活を立て直せるだけの金額だった。
リディアは、昨日の炊き出しで見た顔を思い浮かべた。
やつれた農夫の顔。
母親の陰でじっと鍋を見ていた子どもの目。
そして、出稼ぎに出た幼い少年の顔。
「……公爵には、色々な噂があるけれど」
母が、言いにくそうに口を開いた。
社交界に出ていないリディアでも、聞いたことがあった。
『血も涙もない冷徹な男』。
『何人もの花嫁が消えた』。
それから——公爵は何かの病を患っており、体調が優れない。余命が長くない、という話も。
「無理強いはしないよ。リディアの人生だから……」と父は言った。
母も何も言わなかった。
リディアは少しの間、目を閉じ考えた。
怖くないと言えば嘘になる。
けれど、援助を受けることができれば、領地を立て直すことができる。
それに——もし噂通り、公爵の体調が良くないのなら。
脳裏をよぎるのは、前世の記憶だ。穏やかな笑顔で「最期は穏やかに過ごしたい」と言っていた、患者の顔。
何も、できなかった。
寄り添いたいと思いながら、結局、記録のための言葉しか交わせなかった。
今度は—ー
「受けます。受けさせてください」
父と母は、しばらく沈黙した。それから父が、ゆっくりと目を閉じて頷いた。母は俯いて、何かを堪えるように唇を引き結んでいた。
リディアは穏やかに笑った。
怖いのは本当のことだ。でも、それよりも強く思う気持ちがある。
今度こそ、寄り添ったケアができるかもしれない。
今度こそ、誰かの「穏やかな時間」を、ちゃんと守れるかもしれない。
その思いを胸に、リディアは静かに、しかし迷いなく頷いた。




